■いがらしみきお『かむろば村へ』4巻読んだ。
最終巻。ある意味聖者みたいな主人公が、聖域の村で暮らす話だったが、悪人やら欲深いのやら出てきて、街にも出てって、予想外にややこしく展開した。
予想外と言えば、あとがき。どういうつもりで書いたどういう話か、作者自身が文章できっちり説明してるのに驚いた。この手の作者のメッセージって、読んでこっちが受けた印象とズレみたいのがあって、「ふうん」とか思って参考にはするけど若干遠い感じが普通はする。けど、このあとがきはこれ以上のものはない感じで、しかも種明かしされたことで損した気がまるでしない。
こないだ読んだ仏教の本は執着を捨てろと言う。ヨサブロも自分を捨てろと言う。けど神様である“なかぬっさん”は、どうせおまえらは何かしてしまうからやり続けろと言う。じたばたせずにあるがままを受け入れることは、神様にしかできないとも取れる。凄い肯定の仕方で、作品中の悪人も根本的に否定されない。
あとがき含めて余韻が残る、大変に面白いマンガだった。
中春こまわり君
■山上たつひこ『中春こまわり君』 読んだ。
小中学生の頃『がきデカ』に大喜びし、’90年頃再開された『がきデカ ファイナル』が大好きな俺としては、読み始めてまず、ギャグにキレがないことにがっかりした。こまわり君も老いたが、それ以前に作者が老いたと思っていったん本を置いた(俺もキレがない)。けども読み進めてみると、ギャグはともかくマンガは面白い。
バカボンパパは中身が小学生のおっさんで、こまわりは中身がおっさんの小学生。どっちも同じことで、この立場が最強。
今回のこまわりは、ときどき昔ながらのギャグをかます以外は極めてまともなキャラになってる。むしろ周りのキャラがおかしい。話を俯瞰する立場にいる。社会人として父として、役割を背負ったこまわりにギャグの破壊力を期待するのはムリだろう。けど、そこから描ける大人の話がある。
’87年頃の『主婦の生活』がこれまた大好きな俺としては、この人ならではの機微のある話が楽しめて面白かった。小説家に転向する前の山上たつひこは絵的にも話的にも凄い良くって、そこからの衰えはまるで感じない。マンガ描くのしんどくて小説家になったのかもしんないけど、もっとマンガ描いてほしい。
本売った
9500円だった。
いきなりはじめる仏教生活
■釈 徹宗『いきなりはじめる仏教生活』読んだ。
内田樹と往復書簡形式の『いきなりはじめる浄土真宗』も予備知識なしで始める仏教入門書だったが、あっちは内田樹が門の前で足を踏ん張って中に入らず門の外で問答してたのに対し、こっちは「とにかくまず門の中に入っちゃおうよ。今日からあなたも仏教徒」って感じ。ホントに「いきなりはじめる仏教」。そこまでの心づもりはなく読み始めたから、「え? ちょっと待ってよ」みたいなとこもある。どっかの宗派に所属しろというわけじゃなく、仏教生活を始めるんだけど。
序文から引用。
皆さんは現代を「理解できないような凶悪犯罪が多発する、すごくいやな社会になった」と考えていますか、それとも「いや、大きな視点で見れば、良い社会になっている」と考えていますか。はい、両面ありそうですよね。きっと、どちらも間違っていないのでしょう。でも、「いずれにしても、現代人特有の苛立ちがあり、それはなかなかやっかいである」ってことは確かなようです。私たちは、「現代を生きるためには、自分というものを確立・維持しなければならない」という命題と、「自分というものを自分で扱いかねている」という事態との間で、慢性的に苛立っているような有り様です。そして、この状況において、まさに仏教はオススメなのです。
こんな調子で、最近の問題も取り上げつつ平易な文章で軽く読めて面白い。安易なハウトゥー本にはなってないし、ちょっといい話・心温まる話なんかも載ってないし、かといって淡々としたダイジェストでもない。仏教のとっかかりになるものとして、効果的に、きちんと書かれてる感じがした。
第1章が「自我のバブルは続いている」。肥大しちゃった自我を崩すのに、仏教は有効なツールらしい。現代(モダン)の価値観に対して仏教は別の視点を持ってくるという。
俺は結構うまくいってなくて、根本的には性格というか育ち方間違ったなってことで。俺が俺であり続ける呪いのせいでしんどくなってる。それを崩していかなきゃならんので、何かと参考になるというか、骨身に染みるというか、しっかり読まなきゃなあと思った。
実家近辺
橋本治と内田樹
■『橋本治と内田樹』読んだ。
橋本治ファンブック的な対談。内田樹は主張控えめで、橋本治をずっと面白がってる。
はじめの方は単に楽しい対談だけど、後半からいろいろ面白くなってきた。
えーと、最後の方に「ちゃんとした紹介が、最大の批評だと思うんです。」って章があってですね。感想文なんか書くなとあるんですね。
橋本 私は批評はいらないんです。ちゃんと紹介してくれれば。
<…>
紹介というのは、それこそパブリックな仕事じゃないですか。でもそうすると「自分の責任はどこにあるんだろう」になって、百字くらいの紹介文でさえも責任のとりようがないから、自分の感想文にして「自分が責任をとりました」みたいにしたいんですよ。
内田 ふーん……なんかちょっと耳が痛いな(笑)。書いた者としては。
橋本 「あなたが紹介文を書くんだったら、あなたという人が大物になってから書きなさい」みたいなね。でも「大物じゃない限り、主観を出しちゃいけないんですよ」なんて誰も言わないから。「主観を出せば一人前っぽいから主観を出す」というのが当たり前のスタイルになっちゃった。主観を消すというテクニックがもうわからないんですね。 (p.298)
……耳が痛いですな。ちゃんと紹介、する能力ないわ。
取りあえず引用します。
橋本 <…>
今は世の中から、「人のやったことを参考にして自分で何かする」ということがなくなってるんですよ。
内田 参考にするんじゃなくて、とにかく参加したい。
<…>
橋本 <…>山田風太郎先生と対談しませんかという話があったときに、俺はやっぱりそれは畏れ多いからできない、と思っちゃった。
いまの風潮は、何かに感動して、その本人に会えるといったら即オーケーで、コンタクトをとって、その人の世界に参加することで終わりみたいなふうになっちゃうわけですよ。
内田 そうか。そこで満足して終わり。
橋本 そうすると、その人のクラン(一族)というか子分みたいな感じになるだけで、「自分自身は何もわかんないし、つまんないじゃん」と俺は思っちゃう。ステイタスをもらったみたいなもんで、そのステイタスも有効期限が二年で切れるみたいなものかもしれないし。だから、参加したがるという気持ちが、まったくわかんないんですよ。
内田 うーん……。
橋本 「参考にする」というのがなくなってから、俺は人が本を読まなくなったんだろうなと思うんです。ストレートに自分にとって「わかる、わかる!」と言えるような本とか、即効的に役立つ本じゃないと受け付けられないみたいなね。受験参考書みたいに、これを読めば明日から自分は力がつくんだという、直接的なものじゃないと受け付けなくなっちゃっているんだろうなと、私は思うんですね。
<…>
去年、『上司は思いつきで物を言う』を書いたときに出版社から「売れてます」と言われて、俺の発した第一声は、「ほんとにいまの客は現金なんだ!」と。 (p.168)
橋本 遠いところにあると、参考にしないと自分のものにならないというのがあるじゃないですか。でも、遠くではなくて自分が専有できちゃうと、もう所有しちゃってるから、その所有した自分がすでに何者かであるから、資格を持ってどこかのステージに上がらなきゃいけないんです。そういう意味で参加しちゃって、なんでこんなヘタクソな素人ばっかりがオーディションに来るんだろうみたいになってしまう。すると、どんどんそういうものしかこなくなって、ステージのレベルが下がるというとんでもないことに、いまなっているなとは思う。それはもう八〇年代に感じていたことだけど。 (p.174)
もともと引用するの好きじゃない。引用しちゃうと所有したみたいになるから。誰かが引用交えて本の感想書いて、ブクマされたりすると、そのエントリーが流通して、“引用した部分+オーサーの感想”だけが即効的に役立つものとして消費されるじゃないすか。本買うとこまで行くのはごく少数だと思う。かといって、引用せずに本の面白さを伝える能力がなくって。
最初に引用した「紹介というのは、それこそパブリック」ってのは、みんなの資産、それに対する個々人の役割、みたいな意味合いでのことだろう。引用文をネットに流して共有するってのは、個々人の所有に行き着くわけで、似てるようでベクトルが逆の部分があるのかもしれない。距離をもって参考にするんじゃなく、いきなり参加する側。
前も書いたが、ブラジル音楽好きなのは単に好みに合うってこともあるんだけど、「みんなの歌」って面が結構残ってるから。
日本の歌謡曲でも、作曲家・作詞家の先生がいて、歌い手がいて、プロっていうか職業としての演奏家がいて、みんなのために歌を作ってたと思う。これがアーチストになると「俺の世界」を歌い、同調する人がついていくみたいになる。自意識過剰の連鎖。
ブラジルでもトロピカリズモ以降ロック的な「誰かの歌」になってちょっとつまんなくなるんだけど、それでもルーツを大事にするとこがあってカバーも多い。まだ「みんなの歌」がある。
パソコンとか機械モノをカスタマイズするのがあんまり好きじゃないんだけど、それも誰かが積み上げてきたものに敬意を払わないで、俺がいじる、俺の思い通りにすることに、実際の必要性以上の価値を見出してんじゃないかみたいな。
書いちゃいけない主観に続いて、所有に行き着くかもしれない引用を続けますが。
橋本 本の、薬の効能書きみたいな文章だけ読んで、「ああ、役に立った」というのは、私はあんまりないんですよ。具体的なディテールを教えてもらって、「ああそういう事実があったんだ」と気づけば、それはすごく役に立つんですけど。そうじゃなかったら、「ああ、この人はちゃんとしたいい人なんだから、この人の言うことには耳を傾ける価値があるな」という、その二つだけですね。
俺にとって本ってそういうもんなんですよね。だから結局自分が書くとしても、そういうようなものしかならないんですよ。それは自分の限界だからそれでいいんじゃないか。違うことやる人はいくらでもいるんだから、それはその人たちがやればいいでしょう? ということです。
俺はパブリックな人だから自分の仕事の範囲は責任を持ってやるけど、それ以外は他人の仕事で他人がやるもんだと思ってる。他人を信用してそこをやらないでいるというのがパブリックでしょう、と。
内田 そうです。僕もまったく同じ意見ですね。
橋本 ときどきなんかやってる人が集まって、「ああ、今までみんなでパブリックの分け合いをやあっていたのか。じゃあ、そのまんまでいいじゃないか」と言って、もう一回散るみたいな、俺はそういう離合集散の繰り返しです。
内田 そういところでは論争は起こらないですよね。論争って結局はパブリックなものじゃないから。論争って、結果的にある人のやってきた仕事を否定してしまうじゃないですか。でも、それはその人の持ち分というか、割り前というか、その人が担当する仕事だったんだから、やっぱり「お疲れさまでした」って言ってあげないと(笑)。
橋本 だから家の中で論争をしている前に、外出て竹箒でも持って掃除しろよと思っちゃうんですよね。
内田 (笑)
橋本 それを「あいつは駄目だ」とか言ってもねえ。あいつはちゃんと竹箒を持って三十センチ分ぐらい掃いたんだから、「それで良しとしよう」にしないとね。 (p.228)
とかまあ、いろいろ面白いので読むといいと思う。橋本治を読んだことない人だとわからん話がが出てきて歯がゆいかも。
ちなみに、俺は個人のブログに対しては、ちゃんとした紹介を全然望んでない。「あの人がこういう風に褒めてるなら、きっと面白いだろうな」みたいな読み方するんで。だから自分もあらすじとか概要とかあんまり書かない。書こうと思っても書けないけど。
写植の文字組
■前回はとりわけどうでもいい話をしましたが、今回は「誰が読むねん」みたいな話です。
最近InDesignに切り替わって、写植と同様の文字組ができるようになった。写植時代にやってた本文組はこんなん。
文字組をちゃんと勉強したことないんだけど、’85年のブルータス見たらやっぱりこんな感じだった。アサヒカメラとカメラ毎日は母体がお堅いからちゃんとしてるかと思ったけど案外不統一だった。
ポイントは約物、特にカッコ類がほったらかしなこと。行末を見てほしい。3行目の閉じカッコ、5行目の句点、6行目の引用符のあと、半角空いてますね。行末じゃないけど5行目の(笑)。の起こしカッコの前も空いてる。写植はこんなだったし、これでいいと思うんだけどな。
今はわりと、アキが出るのが嫌われるんですよ。丸パーレンと引用符は詰めろと言われたりする。(笑)を詰めろというのはまあわかる。記号みたいなもんだし。あ、閉じカッコ・句点のあとの空間もちょっとヤな感じだなあ。
行末約物だけど、クォークは日本語関係の機能が弱かったから、欧文と同様にジャスティファイをかけてた。段落のアタマと最後以外はぴっちり左右が揃う。その替わり各行の字間はバラバラになってた。ずっとクォークの文字組を見てたし、最近の人はそもそも写植を知らないしで、行末の半角アキはイヤがられるっぽい。写植時代の文字組が本当にベストかってのはあるけど、本文組はできるだけマス目どおりが綺麗だと思うけどなあ。
まあ、ぶら下がりしない場合は左右揃えにしないと妙だけど。っていうか本文はぶら下がりにしてほしい。
2行目行頭の起こしカッコについては、1行目みたいな段落先頭と区別するため、左に揃えるしかない。
空くとイヤがられるってことで、1行目、閉じカッコのあとを手動で詰めてる。これやんないと行末の“か。”が2行目に送られて、1行目の字間が空いてしまう。ここは詰めていいと思う。
7行目はそのままだと“Muxtape”が丸ごと次行に送られる。“Mux”のあとで強制改行入れても2文字分くらい足りなくて、その分均等に字間が空く。この行全体に3%ツメかけたら収まった。まあこの場合は句点の後ろで詰められるけど。
9行目は最後の“!”がぶら下がれない。1文字分詰めるには20%ツメが必要だった。
この種の詰めは実際要求される。カナ同士は最小-6にしてんだけど、結局詰めることになるなら、もっと下げた方がいいっぽい。あと“!”前の字間は詰まるようにしといた方がいいかな。できるだけ手作業が減る方向で設定を煮詰めたい。
あと横組みの引用符。縦組みと揃えると上下に挟み込むくさびになるけど、読点が続くと気持ち悪い。ふたつめは横組みで一般的なヤツだけどなんかうるさい。
それで写植時代はみっつめみたいにしてた。でもこれ、本来引用符じゃないんだよな。閉じは“秒”の変換で出るダブルプライムで、起こしは異字体のリバースドダブルプライム。カットアンドペーストとか、なんかの拍子に別の記号に変わっちゃって不便。この種の引用符、他にあるんすかね。Verdanaの引用符は字形がこれだけどトゥルータイプだしなあ。
アポストロフィーもどうしたもんやら。1はプライム。カーニングの調整をしないとちゃんと収まらない。2はシングルクォート、3が本来のアポストロフィー。