橋本治と内田樹

橋本治と内田樹『橋本治と内田樹』読んだ。
 橋本治ファンブック的な対談。内田樹は主張控えめで、橋本治をずっと面白がってる。
 はじめの方は単に楽しい対談だけど、後半からいろいろ面白くなってきた。
 えーと、最後の方に「ちゃんとした紹介が、最大の批評だと思うんです。」って章があってですね。感想文なんか書くなとあるんですね。

橋本 私は批評はいらないんです。ちゃんと紹介してくれれば。
 <…>
 紹介というのは、それこそパブリックな仕事じゃないですか。でもそうすると「自分の責任はどこにあるんだろう」になって、百字くらいの紹介文でさえも責任のとりようがないから、自分の感想文にして「自分が責任をとりました」みたいにしたいんですよ。
内田 ふーん……なんかちょっと耳が痛いな(笑)。書いた者としては。
橋本 「あなたが紹介文を書くんだったら、あなたという人が大物になってから書きなさい」みたいなね。でも「大物じゃない限り、主観を出しちゃいけないんですよ」なんて誰も言わないから。「主観を出せば一人前っぽいから主観を出す」というのが当たり前のスタイルになっちゃった。主観を消すというテクニックがもうわからないんですね。 (p.298)

 ……耳が痛いですな。ちゃんと紹介、する能力ないわ。
 
 取りあえず引用します。

橋本 <…>
 今は世の中から、「人のやったことを参考にして自分で何かする」ということがなくなってるんですよ。
内田 参考にするんじゃなくて、とにかく参加したい。
<…>
橋本 <…>山田風太郎先生と対談しませんかという話があったときに、俺はやっぱりそれは畏れ多いからできない、と思っちゃった。
 いまの風潮は、何かに感動して、その本人に会えるといったら即オーケーで、コンタクトをとって、その人の世界に参加することで終わりみたいなふうになっちゃうわけですよ。
内田 そうか。そこで満足して終わり。
橋本 そうすると、その人のクラン(一族)というか子分みたいな感じになるだけで、「自分自身は何もわかんないし、つまんないじゃん」と俺は思っちゃう。ステイタスをもらったみたいなもんで、そのステイタスも有効期限が二年で切れるみたいなものかもしれないし。だから、参加したがるという気持ちが、まったくわかんないんですよ。
内田 うーん……。
橋本 「参考にする」というのがなくなってから、俺は人が本を読まなくなったんだろうなと思うんです。ストレートに自分にとって「わかる、わかる!」と言えるような本とか、即効的に役立つ本じゃないと受け付けられないみたいなね。受験参考書みたいに、これを読めば明日から自分は力がつくんだという、直接的なものじゃないと受け付けなくなっちゃっているんだろうなと、私は思うんですね。
 <…>
 去年、『上司は思いつきで物を言う』を書いたときに出版社から「売れてます」と言われて、俺の発した第一声は、「ほんとにいまの客は現金なんだ!」と。 (p.168)

橋本 遠いところにあると、参考にしないと自分のものにならないというのがあるじゃないですか。でも、遠くではなくて自分が専有できちゃうと、もう所有しちゃってるから、その所有した自分がすでに何者かであるから、資格を持ってどこかのステージに上がらなきゃいけないんです。そういう意味で参加しちゃって、なんでこんなヘタクソな素人ばっかりがオーディションに来るんだろうみたいになってしまう。すると、どんどんそういうものしかこなくなって、ステージのレベルが下がるというとんでもないことに、いまなっているなとは思う。それはもう八〇年代に感じていたことだけど。 (p.174)

 もともと引用するの好きじゃない。引用しちゃうと所有したみたいになるから。誰かが引用交えて本の感想書いて、ブクマされたりすると、そのエントリーが流通して、“引用した部分+オーサーの感想”だけが即効的に役立つものとして消費されるじゃないすか。本買うとこまで行くのはごく少数だと思う。かといって、引用せずに本の面白さを伝える能力がなくって。
 最初に引用した「紹介というのは、それこそパブリック」ってのは、みんなの資産、それに対する個々人の役割、みたいな意味合いでのことだろう。引用文をネットに流して共有するってのは、個々人の所有に行き着くわけで、似てるようでベクトルが逆の部分があるのかもしれない。距離をもって参考にするんじゃなく、いきなり参加する側。
 
 前も書いたが、ブラジル音楽好きなのは単に好みに合うってこともあるんだけど、「みんなの歌」って面が結構残ってるから。
 日本の歌謡曲でも、作曲家・作詞家の先生がいて、歌い手がいて、プロっていうか職業としての演奏家がいて、みんなのために歌を作ってたと思う。これがアーチストになると「俺の世界」を歌い、同調する人がついていくみたいになる。自意識過剰の連鎖。
 ブラジルでもトロピカリズモ以降ロック的な「誰かの歌」になってちょっとつまんなくなるんだけど、それでもルーツを大事にするとこがあってカバーも多い。まだ「みんなの歌」がある。
 パソコンとか機械モノをカスタマイズするのがあんまり好きじゃないんだけど、それも誰かが積み上げてきたものに敬意を払わないで、俺がいじる、俺の思い通りにすることに、実際の必要性以上の価値を見出してんじゃないかみたいな。
 
 書いちゃいけない主観に続いて、所有に行き着くかもしれない引用を続けますが。

橋本 本の、薬の効能書きみたいな文章だけ読んで、「ああ、役に立った」というのは、私はあんまりないんですよ。具体的なディテールを教えてもらって、「ああそういう事実があったんだ」と気づけば、それはすごく役に立つんですけど。そうじゃなかったら、「ああ、この人はちゃんとしたいい人なんだから、この人の言うことには耳を傾ける価値があるな」という、その二つだけですね。
 俺にとって本ってそういうもんなんですよね。だから結局自分が書くとしても、そういうようなものしかならないんですよ。それは自分の限界だからそれでいいんじゃないか。違うことやる人はいくらでもいるんだから、それはその人たちがやればいいでしょう? ということです。
 俺はパブリックな人だから自分の仕事の範囲は責任を持ってやるけど、それ以外は他人の仕事で他人がやるもんだと思ってる。他人を信用してそこをやらないでいるというのがパブリックでしょう、と。
内田 そうです。僕もまったく同じ意見ですね。
橋本 ときどきなんかやってる人が集まって、「ああ、今までみんなでパブリックの分け合いをやあっていたのか。じゃあ、そのまんまでいいじゃないか」と言って、もう一回散るみたいな、俺はそういう離合集散の繰り返しです。
内田 そういところでは論争は起こらないですよね。論争って結局はパブリックなものじゃないから。論争って、結果的にある人のやってきた仕事を否定してしまうじゃないですか。でも、それはその人の持ち分というか、割り前というか、その人が担当する仕事だったんだから、やっぱり「お疲れさまでした」って言ってあげないと(笑)。
橋本 だから家の中で論争をしている前に、外出て竹箒でも持って掃除しろよと思っちゃうんですよね。
内田 (笑)
橋本 それを「あいつは駄目だ」とか言ってもねえ。あいつはちゃんと竹箒を持って三十センチ分ぐらい掃いたんだから、「それで良しとしよう」にしないとね。 (p.228)

 とかまあ、いろいろ面白いので読むといいと思う。橋本治を読んだことない人だとわからん話がが出てきて歯がゆいかも。
 
 ちなみに、俺は個人のブログに対しては、ちゃんとした紹介を全然望んでない。「あの人がこういう風に褒めてるなら、きっと面白いだろうな」みたいな読み方するんで。だから自分もあらすじとか概要とかあんまり書かない。書こうと思っても書けないけど。

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