パズル&ドラゴンズとSiri

Puzzle&Dragons
 3月14日まで無料期間が延長されてるそうで。
 今、こんな状態。レアガチャでネプチューン出たけど育てるの大変そう。
 相変わらずやってるのは、おもしろいのもあるし、虚栄心みたいのもある。“フレンド”の方々に「おっ!?」と思わせたい。フレンドといっても知らない人で、ゲーム中にやりとりもまったくないんだけど。この種のゲームでお金遣っちゃう気持ちがちょっとわかった。まあ、パズル&ドラゴンズは課金しなくても充分遊べるんだけど、タダで楽しんでるから、ちょびっとだけは払おうかと思ってる。けど本来有料アプリなのに広告入ってんのよね。キャンペーン終わったら消えるのかな。

 おもしろいのは前提として、不満を言えば、敵が硬すぎる。
 1、2ターンでこちらのヒットポイントを全部削っていく敵にはまあ勝てないからレベル上げて出直すしかない。で、それ以外の場合は勝てる。ダメージが累積してピンチになっていくパターンもなくはないが、チームに回復系がいれば、まず勝てる。時間の問題。勝てるのはわかってるのに、その時間がかかりすぎる。これ、もうちょっとなんとかなんないのかな。
 もしかしてみんなコンスタントに7連鎖以上出してさっさと終わらせてるんだろうか。あたしゃ狙って出せるのは良くて4、5連鎖までなんだが。
 それに新しいダンジョンに進んでも、やることはずっと同じパズルなわけで。どっか戦略性と絡めるとか、たまに特殊なドロップが出てくるとかあればいいのに。
 あと、パズルそのもののスコアを別に記録しててもいいような。長期戦になったらなったで何か得するとか、必要以上のコンボ出しても無駄にならない何かがあったり。

 iPhone繋がりでSiriが思ったよりいい。試しに「父に電話」って言ってみたら、「あなたのお父さんの名前はなんですか?」「太郎(仮)」(電話帳から実家が表示される)「ふじり太郎さんを父として登録しました。ふじり太郎さんの自宅に電話をかけています」みたいなことになって、うわあ未来だと思った。対応する言葉が増えてくれば使えそう。滑舌悪いのに認識率よくて、メモでも音声入力できるのは便利。

パズル&ドラゴンズ

 iPhoneのパズル&ドラゴンズというゲームがおもしろいと聞いて落としてみたら、第一印象がどうにもよろしくない。携帯のゲームやったことないけど、なんかそれ臭い感じで。グラフィックと音楽を含めて、どうも文化が違うなと。好きになれないなと。
 けど、なんかやめられない。どうにもやっぱりおもしろいらしい。悔しい。
 内容とコツはファミ通の記事が詳しい。
現在人気沸騰中!『パズル&ドラゴンズ』攻略指南! 
 パズルのルールが最初はわかんなかった。
 軌跡上のドロップの位置を入れ替えることがミソなので、動かすドロップそのものは必ずしも消す対象じゃなくていい。これがわかってから先に進めるようになった。たいていのシチュエーションで2連鎖はできる。2連鎖のルートを見つけたら、その後、または途中にもう1連鎖ないか探すと、見つかったり見つからなかったり。
 動かし始めてからは時間制限があるため、ちょっとしたアクション性もある。動かす前は好きなだけ悩めるんだけど、そうそう時間もかけてられない。消すルートを見つけるには慣れというか経験が必要な気がする。レベル上げだけじゃなく、プレイヤー側がうまくなる要素があって楽しい。
パズル&ドラゴンズ 攻略:コツ・テクニック
 ここまではまだできない。
 今月末まで無料、以降は170円らしい。

ゴーカイジャー最終回

 35作目記念作品ということで、いいお祭りだった。過去作のキャストが、必殺技が、BGMが、懐かしい、嬉しい、盛り上がる。最後にアカレンジャーが出て締まりが効いた。
 僕らの代表である鎧への花の持たせ方がよかった。ゴーカイジャー内で通常1話限りのゲストキャラがまた出てきて話に深味を出すのも新しい。

 最終回に向けて徐々に盛り上がる、ってのがなかったのは残念。敵のザンギャックに味がなかった。序盤はバカ殿下が愛されキャラで、ダマラスもそこそこキャラ立ってたし、バリゾーグとジョーの因縁があったのに、本隊が出張ってくると大変なことになるはずが逆に影が薄くなっちゃって。
 前回、大艦隊が出てきて「どうなんの?」と思ったら、なんかあっさり片付いちゃうし、巨大な敵になんとか打ち勝った感が薄かった。
 バスコはキャラ濃かったけど、バスコが出てくるとザンギャックが出なかったり、話があんまり絡んでないし。サリーは切なかったねえ。

 そこら辺はアレだけど、シリーズ通しでおもしろかった。6人みんなよかった。基本、反体制なのもよかった。
 次のゴーバスターズは、いろいろ新しい路線になるようで楽しみ。黄色の丸顔と太腿に期待。

 フォーゼもおもしろいんだけど、仮面ライダー部員がイマイチ活きてない。電王はデンライナーのなかでイマジンがだらだらふざけてるのが好きじゃなかったが、あれに近いものを感じる。弦ちゃん新しく友達作ってばっかりで、釣った魚にエサをやらない的な。今回、次回はゴス子の出番なので嬉しい。

 スマプリはてらてらけばけばしてますな。人気作だろうになんか作画枚数少ないような。黄色のあざとさに乗っていきたい気はするが……。
 ズーブルズはラリりの世界。だいぶおかしい。アメリカ版のタコクラゲ欲しい。

首斬り朝


 作:小池一夫、画:小島剛夕『首斬り朝』を読み返していた。刀の切れ味を試す、御様し御用(おためしごよう)兼、死刑執行人、山田浅右衛門をモデルにしたフィクション。おもしろいんだけど、いま電子書籍しか売ってないみたい。

 首打ち場を土壇場といい、「最後の土壇場」はここからきていると、作中の解説にある。土壇場での死罪人の言動により、そこに至るいきさつを、首斬り役の朝右衛門が知る、というパターンの話が多い。罪を犯さざるを得なかった不運や因果がつづられる。
 不幸はたまたま、幸福もたまたま、みたいな話が繰り返し出てくる。システム批判が出てくることもある。世の中が悪い。今はどうにもならないが、いつか正されることを願う、みたいな。

 朝右衛門はストイックで情が深い。人情話は苦手だけど、ストイックが加われば、べたべたせずさっぱりする。そのうえで、情というものがとても興味深く頭に入ってくる。
 人情の話をするのに情緒のない書き方をするが、それぞれの人物が情報のノードのように見える。
 俯瞰すれば、世の中とか時代とかが大きくて、情報量を持つもの。そのなかの個人はたいした存在ではない。けども土壇場で語られる罪人のいきさつは、人にはどうにもならないという意味で“大きな”因果だとか、システムに由来している。だから大小じゃなく裏表に見える。ひとりのノードは小さいけど、誰もが語る言葉を持っていて、何人ものノードに触れていくと、ネットワークの宇宙っぽいものが浮かんでくる。
 単なる原因と結果である非情な因果と、情との絡み合いがなんとも複雑に感じられる。

 あと、女性の色っぽさが大変に魅力的。河童の新子かわいい。
 もともと喫茶店で読んでて、あとで文庫版を買った。マン喫だと読みたいの読むけど、普通の飲食店だと置いてあるのを読むしかないから意外な作品に出会ったりしますな。マンガ置いてある店、大事。いま住んでるとこにはなくて残念。

T8リングフラッシュ

T8
 昨日のついでにちょっと変わったものを。
 OMシステムはマクロに強く、マクロ用のフラッシュも複数用意されていた。どれもレンズ先端に取り付ける。T10リングフラッシュはごく普通のリングフラッシュ。T45ツインフラッシュはカニのハサミみたいに、角度の変えられるふたつのフラッシュを取り付けるもの。オリンパス独自のものだったと思うが、最近はよそからも似たようなのが出てる。
 で、うちにあるのがT8リングフラッシュ。上は取り付けて正面から見たとこ。白っぽく写っているが実物はアルミのシルバーグレーだ。
T8
 横から見るとこう。レンズ先端のフラッシュは横向きに発光し、アルミの反射板で拡散される。簡単に無影撮影ができる。凝って撮るならツインフラッシュの方が陰影コントロールできていいんだけど、モデリングランプ用の電源も必要だったりで大変。T8は学術用途向けらしいが、楽にそこそこ綺麗に撮れて便利。
 反射板は大小ふたつ付いている。今回取り付けたのは大きい方。
T8

オリンパスと円谷

マイクロ一眼「OLYMPUS OM-D」を発売

 PEN EPシリーズがPEN F風味のデザインを採用したことに何度か文句を言った。そのくせ、しばらく前から噂になってた“OM-D”の名称には、OMユーザーとしてドキドキするものがあった。

 OMシリーズはAFシステムへの移行に失敗した結果、マニュアルフォーカスの上位2機種だけがロングセラーとして存続し続けることになり(のちにOEMの普及機が加わる)、’02年に消滅した。
 翌年、フォーサーズEシリーズが発売される。Eシステムはデジタル専用に新設計したことが売りだった。他社はフィルムカメラのレンズがそのまま使えることを売りにしていたが、フィルム用に作られたレンズはデジカメには適さないと主張していた。で、あれば当然OMとの血脈が切れていることを強調しなければならない。それにマニュアルフォーカスのフィルムカメラなんて、時代遅れな不良資産はアフターサービスをとっとと打ち切りたかっただろう。OMはオリンパスの手で葬られた。ニコンD1、EOS-1Dのような、OM-Dは出なかったのだ。

 それが出る。出ないはずのOM-Dが出る。いや、今のペンと昔のペンが全然別物なのと同様、OM-DがOMじゃないのはわかっている。でも、うちにあるOMと似た感じのデジカメがあったら愉快な気がする。期待しちゃいけないと思いながら、ちょっとは期待してた。

 で、出てみると、やっぱりダメだったねえ。単純にかっこ悪い。ちょっとでも期待した自分がバカだった。
 フォルクスワーゲン・ニュービートルまでの仕事は望まないにせよ、ガンダムがその後の解釈で今風になっていくみたいなことはできなかったんだろうか。
 OM-1とOM-2が一番かっこいい一眼レフだと思ってる「かつてのオリンパス」ファンの期待に、今のオリンパスはてんで応えてくれない。むしろ商売の都合でだけ伝統を持ち出してきて、冒涜してる感じがする。
 
 ウルトラQの途中から、ウルトラマン全部、ウルトラセブンの途中までの美術監督を務めたのが成田亨。ウルトラマン、ウルトラセブンそのものはもちろん、カネゴン、バルタン星人、ゼットン、エレキングなど、今も人気の怪獣のデザインの多くは彼の手によるもの。俺は尊敬してるというか、怪獣ファンはみんな尊敬している。
 帰ってきたウルトラマンに二重線のウルトラマンが登場したことについて、成田亨は苦言を呈していた。自分のデザインではなく、勝手に余計なことをされたと。
 
 平成ウルトラマン初期3部作は結構おもしろかった。作り手がなにかをやろうとしていた。いいものを作ろうとしていた。
 4作目のコスモスで「怪獣を殺さないウルトラマン」なんて、どうにも会議室で決まったくさいコンセプトが掲げられて見る気を失った。実際おもしろくなかった。次のネクサスは「大人も楽しめる」シリアス路線を打ち出して失敗。早々に撤退して次に出したのが「親子そろって楽しめる」マックス。懐かしの怪獣がパワーアップして出てきたりする。
 マックスは見ればそれなりにおもしろいのかもしれんが、商売っ気はもうカンベン。それに成田亨を尊敬する者としては、余計な小細工が追加された怪獣は見たくない。
 円谷は新しいものを作らず、過去の遺産を食いつぶす方向に行った。
 けど、昔の怪獣が出てきても懐かしさを楽しめない。昔のウルトラは今も生きていて、今作られているものは、その冒涜だから。
 
 今のPENもOMも、コンセプトは踏襲せず、上っ面だけ過去の自社製品のマネをしてる。
 PENとOMを作り上げた開発者にしてデザイナー、米谷美久を尊敬する者としては、もうちょっとマシなもの作ってほしいのだが。

オカルト

 去年ピンドラに「運命」とか出てきて、シュタゲはSFだから情緒的なことは言わないけど因果とか出てきて、前々から考えてたことを思い出して書こうとしたが、過去ログ見たら前々から書いてたので自分の文章を引用する。

 俺らは自分で思ってるほど科学的・客観的にものを考えてなくて、オカルトがかった世界に生きてるんじゃないか。
 例えば「かけがえのない想い出の品」には、物理的な根拠がない。持ち主のストーリーが、物にかけがえのなさを付加してる。けども「かけがえのない想い出の品」って概念は一般的に通るから、その価値は一般に実在してる。
 「ストーリー(お話)=オカルト」みたいな感じ。当然「オカルトだからダメ」ってことじゃなく、お話が通じるところでは、お話の中のものは現にあるということで。

 で、うまく繋げて言えないんだけど、シャーレの中に簡単な生物を入れて、片っぽに光を当てると、光を好む生物ならそっちに集まって、嫌う生物なら逆側に集まる。さらにエサを加える、別の生物も加える、とか状況をややこしくしていくと、結果もややこしくなっていく。
 俺らはあらかじめややこしい事態の中にいるんだけど、個別の指向性だけ取り出せば、やっぱり光に集まるとか、電車にミニスカートの女子がいれば向かいに座るとか、シンプルな原因と結果に、想像的には還元できる。
 そういう個別の反応が複雑な条件で積み重なった結果が「今」。
 「偶然はない、すべては必然」みたいな言い方がある。そう言えば言えるが、要素が複雑すぎて因果関係は追いきれないはずだから「偶然」って言っちゃった方が適切でもある。
 いろんなことが起きた中で、何が重大で何が取るに足らないかは人が決める。現在の結果から振り返って、過去に意味づけする。追い切れない無意味な因果関係を、わかりやすくて意味のある流れに置き換える。そうやって人生とか、運命とか、歴史とかは、今を起点にストーリー化される。
 意味を求める癖があるから、ヒトの世界はオカルトになる。「かけがえのない想い出の品」は実在する。死んだ人間も存在する。そういう世界の中で、複雑な指向性の編み直しをやってる。そんな感じじゃないかと。

 ここまでは8年前、現象学の入門書の感想で書いた。
 下はその翌年、仏教の入門書を読んで書いた。

 「俺は生まれてから死ぬまでずっと俺」とか「日本は昔からずっと続いてる」とかって、時間が繋がってると考え過ぎじゃないかと思ってて。
 『大戦略』とかのシミュレーションみたいに、ターン制で考えたらどうか。ターン毎に前のターンは忘れることにする。とにかく今、目の前にこういう状況がある。状況に対して自分の反応がある。1ターン終わり。また忘れる。その繰り返し。
 過去のしがらみを切り捨てて「これからどうするのがベストなのか」だけ考えられれば都合がいいことは多い。過去の罪なんかは、現状はないものなんだから、考えなくて済む。

 車に轢かれたとする。「なぜこんなことになったんだろう」に対して、俺か運転手かがよそ見してたからとか、取りあえずの答は出るかもしれんが、そもそもその道を通るに至ったいきさつとか言い出すと、どこまでも過去に遡って考えることができる。因果関係が複雑すぎて、結局のところ「たまたま」としか言えない。
 たまたまの状況に対して反応して、次のたまたまが来る。

 去年、小池龍之介『ブッダにならう 苦しまない練習』を読んだらこんなことが書いてあった。

 今回は、実は私たちには自由意思などないのではないか、ということを考察してみましょう。
 <…>
 <…>私は子どもの頃、親に「もっと人の気持ちをわかるようになりなさい」と言われていました。しかしながら、それは無理でした。
 なぜなら、私自身が心の底から「人の気持ちがわかるようになりたい」とは思っていなかったからです。そうやって上から押し付けるような説教をされますと、条件反射的に心には反発が生まれます。「人の気持ちくらいわかってるよ、ちぇッ」と。
 その反発心は自動的に湧いてまいりますので、そこには自由な意思はないのです。
 もしも「人の気持ちがわかった方が良い」ということを非常に深いレベルで納得させられて、心底そうだと思った場合には、人の気持ちを理解したいという方向に気持ちが変わるということもあり得るでしょう。
 ただし、もし「わかりたい」という気になるといたしましても、それもまた、「相手の言葉により、どれだけ強いショック情報が入力され、心が反応するか」という条件反射に過ぎません。実は、そこにも自由意思はない。
 <…>
 例えば、地震に遭ったら、地震が起きなかった可能性というのは想定しませんから、たいていの場合、諦めるしかないでしょう。ところが、同じように自分の家が潰れたにしても、誰かにショベルカーか何かで壊されたら、ものすごく腹が立つはずです。
 その差は何かというと、地震の主体は単なる自然であり、そこには選択の余地がないけれども、人がやった場合、「その人にはやらないという選択の余地もあったのではないかしらん」などと心のどこかで考えるので、腹が立つのです。
 しかしながら、実際には、その相手はそういうことをやりたくなるという衝動が湧いてきた時に、そこから逃れるすべはなかったのです。

 あいだを大部はしょって引用してるので誤解されるかもしれないが、人はそのときまでに蓄えた素養でもって、その場のできごとに条件反射で対応しているだけだ、ということ(だと思う)。
 俺の考えるようなことはとっくの昔に言われてたし、もっと深いというか冷徹なとこまで行ってたと。

 入力に対して、特定の出力を返すプログラムが、自分。
 出力が当の自分にとって思わしくなくても、それしか返せない。それは「呪い」のようなものだと思う。
 「今」の状況に「今の自分たち」を一斉に撒く。それぞれの「自分」が出力を返す。1ターン終了。次の「今」に進む。それだけ。これが因果で、この因果はオカルトじゃない。
 そこにストーリーなんていうオカルトを絡めるから運命なんてのも出てくる。オカルトも信じれば影響が出てきて、実際にあるのと同じになる。それもまた呪い。
 そういうものだと思ってる。オチはないです。