■昨日のついでに、ちょっとメタな話を。
いろんな種類の作品があるけども、全部「どのくらい面白いか」で評価を統一できないか。泣ける、笑える、抜ける、怖い、考えさせる、新しい、珍しい、気持ちいい、気持ち悪い、とか、いろいろまとめて総合点的に。
普通にそうしてるつもりだと思うけど、「泣ける」方が「笑える」より偉いとする人は多いし、逆に「泣ける」は下らないとする人もいる。
普段から熱心にエロいものばかり集めてても、エロを他より落として考えがち。エロマンガを褒めるときに「エロいだけじゃない」と言ってみたり。「どのくらいエロいか」も「どのくらい泣けるか」などと同列に置けばいいんじゃないか。エロに優れていて、さらにエロ以外も優れたエロマンガはお得で総合点は高いが、基本エロマンガはいかにエロいかで評されるべきじゃないか。「エロだけじゃない」はエロに対して失礼じゃないか。まあエロはプライベートなものだから、エロで他人に推しにくいし、そもそも推すべきじゃないかもしれん。
言うても実際のところ、方向性が違うものは同じ単位で計れない。諸星大二郎の作品をずっと買ってるが、最近の作品はそんなに面白くない。けどこの人にしか描けない世界だから買う。初期の作品は凄く面白いけど、今初めて読んだらそうでもないかもしれない(『マッドメン』とかは今でもいけると思うが)。俺は中高生の頃リアルタイムで読んで強いインパクトを受けた。その縁で買う。こういう作家の独自性とか、買う側の個人的事情とかは平坦にできない。当たり前ですが。
あと、感情の振り幅を評価の基準にすると、感動するものが偉くて、じんわり来るものは下ということになる。これも具合悪い。
でも平らに評価する、心がけみたいなものは、もっとあっていいんじゃないかと思う。っていうか俺が心がけてる。
まとめると、重厚でも軽薄でも同列に並べ、個人的な指向に関しては別枠、ってことになるけど、「俺が面白いと思うものが良いもの」だとおかしくなる。
味がわかるのだって、鋭敏な味覚と肥えた舌がいるわけで、大抵の良し悪しは才能と経験がないとわからない。俺はジェームス・ブラウンの何がいいのか長いことわかんなかった。「俺」は当てにならない。
作品がある問題を扱ってたとすると、その問題について考えたことがなければ理解できない。いろいろ分かって知ってる人が、分からないし知らない人より面白いものを楽しめて、作品に対して面白いこと言えるのは当たり前だ。俺は才能がなくて修練しないから、この程度ということで、けど俺なりにもうちょっとなんとかしたいと思っていて。
「テレビは終わった」とか言ってる人がいるみたいで、俺もしょうもないから『やりすぎコージー』くらいしか見てないけど、下らなくても著作権がややこしくても、今後も大多数が見るだろう。テレビは終わらないし、終わらないのがわかってるから「終わった」と連呼してんじゃないかと思う。大多数にそこそこウケて、そこそこ怒られないものを作ろうとすると、今のテレビみたいになるのはしょうがないとも思う。
工業製品もそうで、ウケを狙うとマイナスイオンとかになる。
受け手に評価能力があるとは限らないが、売る側は儲けたいから、受け手の評価能力は棚上げする。めちゃめちゃなニーズでも沿った方が売れる。お客様は神様だと、まず客の方が認識してるんで、棚上げに増長する。自分の評価能力を疑う機会が減る。
極端に言えば、バカに合わせてものが作られていて、良いものよりウケるものが流通し、結果的にババ掴まされて損してるが、バカだから気付かないってことになる。
この状況に対して「バカにするな!」と思うんだけど、そのためにはまず自分のバカさを自覚して「お客様」「俺様」の座から降りなきゃいけないわけで。