タイトルはカエターノの曲名。
デモに対して「あんなの意味がない」って言いたがる人のモチベーションは何に由来するんだろう。意味がないと思うなら、自分が意味があると思う別のことをやればいいだけのことだ。
彼はそれをやっている。「もし私が彼なら」みたいに、彼の立場で誰かがなにか言ってもしょうがない。彼は彼であなたじゃないから。立場も考えも違い、彼に関する情報を、あなたは彼自身より持っていない。
製品やら作品やらの送り手は、アンケートに懸賞を付けてまでお客さんの意見を聞こうとする。送り手は受け手じゃないから、受け手の気持ちがわからない。それを知りたい。
これに対し、「あなたの製品/作品はこうあるべきだ」と作り手の立場から意見してもしょうがない。有用なのは、どうすればいいか客観的な意見ではなく、受け手ひとりひとりの個人的な感想だ。作るノウハウを持っているのは送り手で、客じゃない。素人の意見を聞いても仕方がない。第三者の冷静な意見が聞きたければ、その方面のプロに頼む。人に方針を示せる力があるなら、ご自分の職場で発揮してくださいということになる。
言ってもしょうがないのに言いたいこともある。俺は昔のオリンパスが好きだから、今のオリンパスに意見したくなってしまう。一方、フジテレビが変なことしてても何も思わない。もともと何の期待も関心もない。
デモに意味がないと言わずに済まない人には、何かしら愛憎があるはず。ケンカはレベルが近い者のあいだで起きる。一体どんな感情で自分を重ねてるんだろう。
単純に、関心がない人にとっては迷惑というのはある。道がふさがったり、うるさかったり。雰囲気が厭ってのもあるだろう。
「関心がない人にとっては」なんて付いてしまうのがむかつくのかもしれない。左右問わず、正しいことをやってるんだから認めろ、みたいになりがちで、それは大変うざったい。
意味がないことをしてるくせに「とても有意義なことをしている私」をデモンストレーションされることがカンに障る、が一番大きいのかな。そういう人が何割いるか知らないけど。この場合、「客観的に考えて」「意味がある/ない」の戦いになる。客観なんてあやふやなものは置いといて、それぞれが主観を主張すればいいのに。
即座に政策変える力があるかという点では、現状デモに意味はないと思う。
意思表示なら、意味があるとかないとかじゃなくなる。アメリカ政府がムチャやってるときに、アメリカで反対するデモやってたら、日本でちょっと安心したりもする。
いろんな方面で、誰かがやってることに対して、それをするべきじゃないと言って足を引っ張る人がいる。有名人のブログとかツイッターに対して、あなたの立場でそれを言うべきじゃないとか。結果、当たり障りのないことしか言えなくなる。ポカやらかして叩ける日が来るのを待ってる人もいる。何もしなければ怪我しない状況作って、得するかな。