デートレフ・ポイカート『エーデルワイス海賊団』

エーデルワイス海賊団 副題は「ナチスと闘った青少年労働者」。独裁体制下で言うこと聞かなかった若者たち、エーデルワイス海賊団の記録。資料の羅列だから退屈なとこもあった。
 
 エーデルワイス海賊団は、共産趣味ではあったようだが政治性は薄く、抵抗運動をしていたとは言い難い。単にヒトラー・ユーゲントがマヌケのくせにデカい顔してて気に入らんから殴ってたようだ。
 統一された組織でもなく、日本で言えばカミナリ族とかタケノコ族とかトミノコ族とか、その種の自然発生的なもので、基本的にはハイキンググループだった。
 ハイキング用のハデなチェックシャツ、白のハイソックス、皮の半ズボン、赤いスカーフ、鋲の付いたベルト、エーデルワイスのバッジを身に付けていた。「ハイキング伊達男」とも呼ばれる。
 日本語にすると、どうにも妙。伊達男って。大体、海賊って。英語だとパイレーツだからなんとなくニュアンスはわかるが、日本語には「海」が入ってて違和感がある。
 しかもハイキング。不良がハイキング。親の目を離れて行動できるメリットはわかるが。
 ヒトラー・ユーゲントは男子のみ、女子はBDM(ブント・ドイチャー・メーデル)と分離されてたのに対し、エーデルワイス海賊団では異性と楽しくやれて、ヤれたりするのも魅力だったようだ。ヒトラー・ユーゲントは余暇の活動まで規定してたらしいから、そりゃまあ、やっとれんだろう。
 ナチスをからかう替え歌を歌い、公園に「打倒ヒトラー」と落書きして回る団体が終戦まで存続してるのが不思議だが、ちゃんとした組織じゃないから解散させることもできなかったらしい。それに、若者は反抗したいものだし、一時的な行動だから、適切に指導してやればまっとうになるよと考えてたようだ。理解があるとも言える。若者は野外でのびのび遊びたいものなのに、ヒトラー・ユーゲントは彼らの要求に応えられていないという体制側の自己批判まであった。やっぱり若者はハイキングなのか。あたしゃ高校のときワンダーフォーゲル部だったけどね。若者として正しかったんですかね。「歩く文化系」と呼ばれて運動部扱いしてもらえなかったけどね。
 
 海賊団のスタイルは、それ以前に存在した「ブント青少年」を踏襲してるようだ(日本にもブントという組織があるが、「ブント」は「同盟」の意味らしいからたぶん関係ないんだろう)。この本を読む限りではブント青少年の方が組織化されていたらしいことくらいしか海賊団との違いがわからない。ブント活動が禁止されたあと、不良がブントのスタイルを真似たらしい。
 ユースホステル運動研究室・リヒアルト・シルマン先生の生涯によると、ワンダーフォーゲル運動やユースホステル運動には、急速に高度化する資本主義の中で、自然回帰・人間性の回復を図る意味があったらしい。ブントもこの流れなんだろう。ナチスにも自然回帰の指向性はあったようだし、こういう時代だったのか。
 松岡正剛の千夜千冊『ドイツ青年運動』を見ると事情はもっと複雑だったみたい。ここではワンゲル→ブント→ナチスと繋がってる。しかし、ナチスはブント活動を禁止した。ブントがヒトラー・ユーゲントに吸収されたあと、「本来の」ブントへの回帰を指向したのが海賊団なのか。
 
 別の不良集団「スウィング青少年」も面白い。

 正式のメンバーと認めてもらうには誰でもスウィング青少年の慣習や服装、目印を受け入れねばならず、男子の場合にはしばしば上着の襟まで達する長髪(髪の長さは二十七センチ)によって正式メンバーと認められた。メンバーは主として丈の長い、チェックの模様の入ったイギリス風の上着を着用していた。靴は厚めの、明るい色のクレープ加工底のもの、派手なマフラー、ハンガリー外交官が被っているような帽子、腕には天候とは無関係に常に雨傘、ワイシャツのボタン穴には目印のカラフルなカウスボタン、といった格好だった。
 女子も波打つような長い髪型を好んだ。眉を引き、口紅を塗り、爪にはマニュキアをしていた。
 メンバーの態度も服装と同じく酷いものだった。
 彼らの言葉使いもスウィング青少年の本質を特徴付けていた。彼らはお互いを「スウィング・ボーイ」、「スウィング・ガール」と呼び合っていた。手紙の結びの挨拶は「スウィング万歳」であり、スローガンは「のらくら暮らす」だった。そのために「のらくらクラブ」とも呼ばれていた。「のらくらボーイ」や「のらくらガール」の日記には、「午後は<のらくらして過ごした>」、という文章がよく見られた。彼らの理想はのらくら生きることである。ある日記には「かくしてわれわれはステキなバー・スウィングで早朝までのらくらしていた」とあった。もっと頻繁に見られた表現は「ホットジャズを踊った」、「ホットジャズ」、「ホットジャズ・パーティー」などだった。
 スウィング徒党のイギリスかぶれぶりをさらに特徴付けているのは彼らのイギリス・アメリカ音楽、特に現代ジャズへの熱狂ぶりであり、彼らのホット・ミュージックとの関係は一種の精神病と見なされる。この黒人音楽への偏愛がこの種の多くの若者たちを繋ぎ止めている主要な絆だった。この音楽、そしてこの音楽と結びついたダンスが娯楽の主たる対象だった。ダンス禁止令が出されていた間は酒場で踊ることはできなかったので、音楽に合わせて歌をうたい、腕を動かしてリズムを取っていた。そうした青少年グループの光景は「気のふれた狂人の舞踏病の一団」に似ていた。

 まさにサブカルチャー。「酷いもの」とか「気のふれた」とか否定的なのは体制側の文書だから。「スウィング万歳」は「ハイル・ヒトラー」のもじり。この時代、こんなんよその国でもあったのかね。俺ものらくらしていきたい。仕事しないぞ! 黒人音楽で踊るぞ! 反体制だ! サボタージュだ!

3 thoughts on “デートレフ・ポイカート『エーデルワイス海賊団』

  1. おならぷー、おげれつー。
    最近「族」っていわなくなったね。今は「系」か。
    俺たち、ひょうきん系。

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