『地平線でダンス』

柏木ハルコ『地平線でダンス』 5巻。完結。『タイタンの妖女』を思い出したりもした。
 
 ファンのクセに、俺はこの人の作品がわかってなかった。
 タイムマシンを扱うSFって設定は、キャッチーでフックもある。けども今風のリアリティーと、動物に憑依とかマンガ的荒唐無稽さとのギャップが大きかったり、先が予測できなさすぎて感情移入しにくかったり。『鬼虫』同様「これは一体何の話なんだろう」みたいな疑問符がついてまわる。『鬼虫』ほどじゃないけど結構変な話に感じた。
 終盤はややこしいんで、連載で間を空けて読むと話に入っていきづらかった。単行本でまとめて読み直せば面白かったけど、まだピンと来てなかった。1回目は。
 
 『鬼虫』読み返してみて、ついでに『ブラブラバンバン』の映画を借りてきて、そんでまたついでに『ブラブラバンバン』読み返して、この2作品は比較的好きじゃなかったんだけど面白くて、ちょっとわかった気がして、この人の長編は構成要素が似てるなと思った。
・強い動機で話を推し進めるキャラ
・巻き込まれる気弱なキャラ
・引っかき回すキャラ
・あと、異常/才能
 これが作品ごとにキャラとか設定とかに割り振られてる感じ。『ブラブラバンバン』だと推し進めるのも引っかき回すのも異常も才能も、芹生さん。
 『地平線でダンス』の場合、推進力を持ってるのは主人公の琴理。最初の事件のあと状況をなんとかするため推進力を発揮する。一方、竜ヶ崎は事件で折れて停滞した。竜ヶ崎は琴理の反転みたいなとこがあって、逆だけど近い。本来は推進力を持ってる。ナナには推進力が全くない。引っかき回すキャラ。けど、ナナと琴理にも反転みたいなとこがある。
 とか、強引に当てはめて分かった気になってもしょうがないんだが、これで俺的には柏木ハルコ作品が読みやすく、より楽しめるようになった。要は設定に惑わされず(ってのも変だが)人物の間の話を読めばよかったんだな。
 SFの筋を追うんじゃなく、3人の心情に入って読み直して、やっとどういう話かわかった。この作品は3角関係に似たもの、ラブストーリーに似たもので、それがSFの設定でとんでもなくスケールがデカくなってる。SFとしてのスケールじゃなく、人関係の話のスケールが。うわー、面白い!
 って、みんなは普通に読めてるんだよな。なんか俺のアタマにある定形と、この人の話の作り方にズレがあって障壁できてたんだろうな。
 
■障壁あってもファンだったのは、わからんなりに、この人の作るドラマは他とレベルが違うと感じてたから。まるでシミュレーションみたいに見える。
 こういう設定がある。こういうキャラがいる。設定の中にキャラを泳がせてみる。観察して記述する。
 重要なのは、環境が違えば行動が変わること。普通、熱血キャラはどこへ行っても熱血だが、器用なエリートである竜ヶ崎は、つまずいて底辺みたいになる。『よい子の星』では、都会で変人の主人公が、田舎じゃ楽しい人気者になる。
 「このキャラをこう動かそう」的な話作りだと、キャラは物語のコマとして、作者の意図で動く。話を進めるのは作者ひとりの意志。人ひとりが思い付くものは知れてる。
 これが「このキャラはどう動くだろう」だと、行動規範は作者の外にある。言うても考えるのは作者だし、作者が思い付かないものは描けないんだけど、「どう動くか」は外から(あるいは意識下から)呼び込まれる。キャラごとに違う行動規範を持つ。規格の違う歯車がぎくしゃく回る、その隙間に話がある。キャラごとのズレは解消されず、全体がズレを許容していく。
 琴理と竜ヶ崎、ふたりで論文をまとめるのに熱中するシーンがある。論文の著者はこのふたりだけど、書かれる理論は外にあらかじめ存在してる。このシーンみたいに作者は編集か設定アドバイザーと話し、アタマぐるぐるさせながら物語を外から呼んで作品に定着してるのかなと想像したりする。

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