■Zine+CD『華氏マイナス451度』が届いた。これ、なんて言ったらいいんだ。「ガツンとやられた」みたいな言い方があるけども、それに似てはいるけどそんなにわかりやすいことになってなくて、ぽかーんとしているみたいなことになってるので感想なんて書けないんだけど、俺的には事件なのでやっぱり書いとこうと思って、いっそもういつも以上にちゃんと文章にしないという方法で書く。
Zineって手作り的なイメージがあって、そういうのも面白いんだけど、これめちゃめちゃしっかりしてる。質感が重い。最初の感想が「なんでこんなものが作れるの?」。写真集って写真を見せるのが目的の容器だけど、これは物体としてできてる。変な物体。中身と形態に主従がないというか。そんでCDサイズだから本とCDも分離した感じがなくて、CDとして見ても変な物体。手に取ると、ぽかーんとしてしまう。ぽかーんとして「うーん、なんだこれは」と思いながら見てて、なんか感想言うとしたら「凄い」くらいしか出てこない。いやもう、凄いっす。
音楽は先行してEPをダウンロードして愛聴してたんだけど、夜ひとりで部屋にいるときの頭の動きに似てる。ちょっと切なげで可愛くてきりっとしてて沈みつつ覚醒して。大変に好き。外で聴いてて周りの音と混じった感じもまた面白い。
もし曲がガツンとしてたら「ガツンとやられた」に近いことになったかもしれないけど、曲とあわせて冷静に拡散して、感想がさっくり出てくるわかりやすさから外れて面白くなってるような。
とかやっぱり書かない方がよかったんじゃないか感があり。とても良いものを買った感があり、それをなんと言っていいのかわからない感が強し。
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最近読んだの
■加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』。日清戦争から太平洋戦争まで、どういう経緯で戦争になって、それについて当時の人間がどう思ってたか、高校生向けの講義をまとめたもの。
表紙のイメージと「高校生向け」でもって反戦平和っぽい印象を受けるけど、内容はそうでもなく淡々と多方面から追ってる。わかりやすくて面白かった。
んで、文章がかっこいい。キリッとしてる。気持ちいい。
■きらたかし『ケッチン』1巻。バイクをからめた青春もの。主人公は若いこともあって『赤灯えれじい』よりもヘタレ。バイクと女の子の力で変わっていく話のようで、現段階ではちょっと不安もあるけど、この人のことだから大丈夫でしょう。
バイクに興味持ったことないから、こういう青春もなかったんだけど、そんな俺にも響きますな。うっかり「青春」とか言っちゃってるが、青春ってわりと死語。そんでこれはやっぱ青春ものですよ。ひりひりちらちらする。
状況ごと描く感じがやっぱ凄い。主人公が話を進めるために状況が付随するんじゃなくて、状況の中に主人公がいる。赤灯えれじいは職場の描写がヤケにリアルだったけど、ヘタレの主人公が社会の中に居場所を見付ける話だったから、職場を細かく描かなきゃいけなかったんだろう。「俺様の自己実現」なら、俺様のキャラを描けば状況がついてくるけど、その逆みたいな。今回は地方の高校生だから、地方の情景ごと描いてて、なんか映画っぽくていいですな。
■河下水希『あねどきっ』1巻。突然美少女が同居するパターン。でも主人公が中学生で、女の子が高校生。ちょっと大人。身長も乳もでかい。となると、ルナ先生に近いとこもあって、好むところです。
普通なら性悪キャラの桜井さんが、お姉さんの影に隠れてかわいそうで、かわいくなっちゃってるのも面白い。
石神井公園
■石神井公園には休憩所がある。久住昌之 +谷口ジロー 『孤独のグルメ』にも出てくる。ビンのチェリオはなかったが、ペットボトルなら健在。吾妻ひでおは一時期、東伏見駅前の竹藪で寝て、昼間は石神井公園に通っており、ここで飲み食いしてる人が羨ましかったそうだ。
広めの座敷があっていい雰囲気。ワンカップと、おでんをいただいた。おでん美味しいし、開放的で大変よかった。残念ながら店内は撮影禁止だそうで、外側からだけ。
■公園うろうろしてると動植物が気になる。んで、前から欲しかった『日本の生きもの図鑑』を買った。携帯できるサイズで動植物を扱ってるから網羅性は低いがお手軽。装丁もあざとくない範囲でおしゃれ。企画・編集の勝利。
けど実際買ってみると、イラスト小さすぎてわかんないですな。動物はいいんだけど植物がつらい。特徴や近似種との見分け方がもっと文章でフォローされてれば良かったのに。文字小さくして情報量を増やすって選択は全年齢対象ってことで捨てられたのだろうし。まあでも取りあえずの1冊として、ないよりは全然いい。
■カメラでも普段望遠は使わないが、動植物を見るとなると遠くが見たくなる。双眼鏡があればいいが、眼鏡ユーザーとしては大げさ。で、便利なのがビクセン マルチモノキュラー4X12。前に買って使い途がなく眠らせてたが、公園ではなかなかいける。60グラムと軽くコンパクトで、20センチまで寄れてルーペにもなる(さらに別売りのルーペスタンドもある)。
他に6倍・8倍があるけど倍率が高くなるほど視界が狭く暗くなり、手ブレにもシビアになる。かと言って4倍じゃありがたみ少ないんで6倍のこっちにしときゃ良かったかなという気も。
ツァイスにも似たスペックのがあって、持ってたら嬉しいがお値段がねえ。
いきなりはじめる仏教生活
■釈 徹宗『いきなりはじめる仏教生活』読んだ。
内田樹と往復書簡形式の『いきなりはじめる浄土真宗』も予備知識なしで始める仏教入門書だったが、あっちは内田樹が門の前で足を踏ん張って中に入らず門の外で問答してたのに対し、こっちは「とにかくまず門の中に入っちゃおうよ。今日からあなたも仏教徒」って感じ。ホントに「いきなりはじめる仏教」。そこまでの心づもりはなく読み始めたから、「え? ちょっと待ってよ」みたいなとこもある。どっかの宗派に所属しろというわけじゃなく、仏教生活を始めるんだけど。
序文から引用。
皆さんは現代を「理解できないような凶悪犯罪が多発する、すごくいやな社会になった」と考えていますか、それとも「いや、大きな視点で見れば、良い社会になっている」と考えていますか。はい、両面ありそうですよね。きっと、どちらも間違っていないのでしょう。でも、「いずれにしても、現代人特有の苛立ちがあり、それはなかなかやっかいである」ってことは確かなようです。私たちは、「現代を生きるためには、自分というものを確立・維持しなければならない」という命題と、「自分というものを自分で扱いかねている」という事態との間で、慢性的に苛立っているような有り様です。そして、この状況において、まさに仏教はオススメなのです。
こんな調子で、最近の問題も取り上げつつ平易な文章で軽く読めて面白い。安易なハウトゥー本にはなってないし、ちょっといい話・心温まる話なんかも載ってないし、かといって淡々としたダイジェストでもない。仏教のとっかかりになるものとして、効果的に、きちんと書かれてる感じがした。
第1章が「自我のバブルは続いている」。肥大しちゃった自我を崩すのに、仏教は有効なツールらしい。現代(モダン)の価値観に対して仏教は別の視点を持ってくるという。
俺は結構うまくいってなくて、根本的には性格というか育ち方間違ったなってことで。俺が俺であり続ける呪いのせいでしんどくなってる。それを崩していかなきゃならんので、何かと参考になるというか、骨身に染みるというか、しっかり読まなきゃなあと思った。
橋本治と内田樹
■『橋本治と内田樹』読んだ。
橋本治ファンブック的な対談。内田樹は主張控えめで、橋本治をずっと面白がってる。
はじめの方は単に楽しい対談だけど、後半からいろいろ面白くなってきた。
えーと、最後の方に「ちゃんとした紹介が、最大の批評だと思うんです。」って章があってですね。感想文なんか書くなとあるんですね。
橋本 私は批評はいらないんです。ちゃんと紹介してくれれば。
<…>
紹介というのは、それこそパブリックな仕事じゃないですか。でもそうすると「自分の責任はどこにあるんだろう」になって、百字くらいの紹介文でさえも責任のとりようがないから、自分の感想文にして「自分が責任をとりました」みたいにしたいんですよ。
内田 ふーん……なんかちょっと耳が痛いな(笑)。書いた者としては。
橋本 「あなたが紹介文を書くんだったら、あなたという人が大物になってから書きなさい」みたいなね。でも「大物じゃない限り、主観を出しちゃいけないんですよ」なんて誰も言わないから。「主観を出せば一人前っぽいから主観を出す」というのが当たり前のスタイルになっちゃった。主観を消すというテクニックがもうわからないんですね。 (p.298)
……耳が痛いですな。ちゃんと紹介、する能力ないわ。
取りあえず引用します。
橋本 <…>
今は世の中から、「人のやったことを参考にして自分で何かする」ということがなくなってるんですよ。
内田 参考にするんじゃなくて、とにかく参加したい。
<…>
橋本 <…>山田風太郎先生と対談しませんかという話があったときに、俺はやっぱりそれは畏れ多いからできない、と思っちゃった。
いまの風潮は、何かに感動して、その本人に会えるといったら即オーケーで、コンタクトをとって、その人の世界に参加することで終わりみたいなふうになっちゃうわけですよ。
内田 そうか。そこで満足して終わり。
橋本 そうすると、その人のクラン(一族)というか子分みたいな感じになるだけで、「自分自身は何もわかんないし、つまんないじゃん」と俺は思っちゃう。ステイタスをもらったみたいなもんで、そのステイタスも有効期限が二年で切れるみたいなものかもしれないし。だから、参加したがるという気持ちが、まったくわかんないんですよ。
内田 うーん……。
橋本 「参考にする」というのがなくなってから、俺は人が本を読まなくなったんだろうなと思うんです。ストレートに自分にとって「わかる、わかる!」と言えるような本とか、即効的に役立つ本じゃないと受け付けられないみたいなね。受験参考書みたいに、これを読めば明日から自分は力がつくんだという、直接的なものじゃないと受け付けなくなっちゃっているんだろうなと、私は思うんですね。
<…>
去年、『上司は思いつきで物を言う』を書いたときに出版社から「売れてます」と言われて、俺の発した第一声は、「ほんとにいまの客は現金なんだ!」と。 (p.168)
橋本 遠いところにあると、参考にしないと自分のものにならないというのがあるじゃないですか。でも、遠くではなくて自分が専有できちゃうと、もう所有しちゃってるから、その所有した自分がすでに何者かであるから、資格を持ってどこかのステージに上がらなきゃいけないんです。そういう意味で参加しちゃって、なんでこんなヘタクソな素人ばっかりがオーディションに来るんだろうみたいになってしまう。すると、どんどんそういうものしかこなくなって、ステージのレベルが下がるというとんでもないことに、いまなっているなとは思う。それはもう八〇年代に感じていたことだけど。 (p.174)
もともと引用するの好きじゃない。引用しちゃうと所有したみたいになるから。誰かが引用交えて本の感想書いて、ブクマされたりすると、そのエントリーが流通して、“引用した部分+オーサーの感想”だけが即効的に役立つものとして消費されるじゃないすか。本買うとこまで行くのはごく少数だと思う。かといって、引用せずに本の面白さを伝える能力がなくって。
最初に引用した「紹介というのは、それこそパブリック」ってのは、みんなの資産、それに対する個々人の役割、みたいな意味合いでのことだろう。引用文をネットに流して共有するってのは、個々人の所有に行き着くわけで、似てるようでベクトルが逆の部分があるのかもしれない。距離をもって参考にするんじゃなく、いきなり参加する側。
前も書いたが、ブラジル音楽好きなのは単に好みに合うってこともあるんだけど、「みんなの歌」って面が結構残ってるから。
日本の歌謡曲でも、作曲家・作詞家の先生がいて、歌い手がいて、プロっていうか職業としての演奏家がいて、みんなのために歌を作ってたと思う。これがアーチストになると「俺の世界」を歌い、同調する人がついていくみたいになる。自意識過剰の連鎖。
ブラジルでもトロピカリズモ以降ロック的な「誰かの歌」になってちょっとつまんなくなるんだけど、それでもルーツを大事にするとこがあってカバーも多い。まだ「みんなの歌」がある。
パソコンとか機械モノをカスタマイズするのがあんまり好きじゃないんだけど、それも誰かが積み上げてきたものに敬意を払わないで、俺がいじる、俺の思い通りにすることに、実際の必要性以上の価値を見出してんじゃないかみたいな。
書いちゃいけない主観に続いて、所有に行き着くかもしれない引用を続けますが。
橋本 本の、薬の効能書きみたいな文章だけ読んで、「ああ、役に立った」というのは、私はあんまりないんですよ。具体的なディテールを教えてもらって、「ああそういう事実があったんだ」と気づけば、それはすごく役に立つんですけど。そうじゃなかったら、「ああ、この人はちゃんとしたいい人なんだから、この人の言うことには耳を傾ける価値があるな」という、その二つだけですね。
俺にとって本ってそういうもんなんですよね。だから結局自分が書くとしても、そういうようなものしかならないんですよ。それは自分の限界だからそれでいいんじゃないか。違うことやる人はいくらでもいるんだから、それはその人たちがやればいいでしょう? ということです。
俺はパブリックな人だから自分の仕事の範囲は責任を持ってやるけど、それ以外は他人の仕事で他人がやるもんだと思ってる。他人を信用してそこをやらないでいるというのがパブリックでしょう、と。
内田 そうです。僕もまったく同じ意見ですね。
橋本 ときどきなんかやってる人が集まって、「ああ、今までみんなでパブリックの分け合いをやあっていたのか。じゃあ、そのまんまでいいじゃないか」と言って、もう一回散るみたいな、俺はそういう離合集散の繰り返しです。
内田 そういところでは論争は起こらないですよね。論争って結局はパブリックなものじゃないから。論争って、結果的にある人のやってきた仕事を否定してしまうじゃないですか。でも、それはその人の持ち分というか、割り前というか、その人が担当する仕事だったんだから、やっぱり「お疲れさまでした」って言ってあげないと(笑)。
橋本 だから家の中で論争をしている前に、外出て竹箒でも持って掃除しろよと思っちゃうんですよね。
内田 (笑)
橋本 それを「あいつは駄目だ」とか言ってもねえ。あいつはちゃんと竹箒を持って三十センチ分ぐらい掃いたんだから、「それで良しとしよう」にしないとね。 (p.228)
とかまあ、いろいろ面白いので読むといいと思う。橋本治を読んだことない人だとわからん話がが出てきて歯がゆいかも。
ちなみに、俺は個人のブログに対しては、ちゃんとした紹介を全然望んでない。「あの人がこういう風に褒めてるなら、きっと面白いだろうな」みたいな読み方するんで。だから自分もあらすじとか概要とかあんまり書かない。書こうと思っても書けないけど。
『占領と改革』
■雨宮昭一『占領と改革』読んだ。
戦後民主教育にどっぷり浸かって育ったのだが、あとになって思えば俺らの思考はGHQの思惑どおりに作られてんじゃないか。軍部だけが悪いってことになって、民主主義の主権者であるはずの国民と、逆に頂点の天皇は免罪されて、責任を取り損ねた。「戦争はイケナイ、上の人間が暴走してやったことで庶民は常に被害者だ」と考えるようになった。
庶民って言葉は使わなくなったけど未だに「お上VS庶民」の構造はあって、庶民はお上に文句言ってればいいと思ってて主権者の自覚を持たない。
GHQの思惑どおりじゃなさげなとこは、戦後民主教育が左なこと。片っぽではアメリカ文化にしっぽり染まったが、片っぽで反米もある。そのへんがわからない。
なんにせよ自分のベースには、戦後処理が大きくかかわってる気がする。
そういうことで買ったんだが、この本の主旨は、これまでの占領政策の評価に対する反論だった。日本はアメリカの占領で民主化・近代化されて良かった、ということになってるが、そういう評価はどうなんだと。日本の民主化はホントにアメリカのおかげか、アメリカがいなくても近代化できたんじゃないかと。
そもそも占領政策そのものをよく知らないので、そっから先の話をされてもわからない。
わからないが、この本の視点にはヒリヒリ来るものがある。例えばこれ。
<…>アメリカ政府ではアメリカが中心となって日本を占領し、ソ連とイギリスと中国で分割統治をするという案を考えていた(五百旗頭真『米国の日本占領政策』下)。しかし、この五百旗頭の議論もそうだが、敗戦が早まって分割されなかったのは非常にラッキー(幸運)だったと強調されることが多い。しかしラッキーだったという視点でよいのか。それよりも、もし分割された場合には、異なった展開が考えられて、必ずしも悲惨な状況というばかりではないあり方があったのではないか。(P.22)
歴史が好きな人って、人物が好きな印象がある。誰が、どう考えて、どうなったか、キャラ寄りで考えてる感じがする。この手の、誰かの意志が歴史をドライブする「意志ドリブン」みたいなのには違和感がある。フィクションでもそうで、かわぐちかいじ『ジパング』に全然のってけないのも、人物優先・意志ドリブン史観だから。自分のことも自分でわかんなくて意志どおりには動かないものなのに、政治みたいなデカいとこでそんな単純にことが進むんだろうか。権力者が歴史に大きな影響を与えるのは当たり前にしても、そのうしろには民衆やら周囲の状況やら、いろんなファクターがあるはずだ。上で引用した文章には、いろんなファクターといろんな可能性が折り込まれてる。「分割統治されてたらされてたで、違う未来があったんじゃないの?」なんて、なかなか言えない。でも、そういうもんだと思う。だもんで、視点に信頼がおけるこの本は、入門書として読んでも面白かった。
読んだはじから忘れちゃうんで、これからはノートを取ることにする。
<…>農村と都市、ジェンダー等々を含めたさまざまな格差と不平等は、一九三〇年代以降も存在した。とくに一九二九年から始まる世界大恐慌の中では、この格差と不平等が緊急に解決すべき問題として出てくる。この問題の解決には三つの方法があったと考えられる。第一は社会運動による解決、第二は社会の中の支配層の進歩的な勢力と社会の中間層以下との連合による解決、第三は総力戦体制への参加による平等化と近代化、現代化による解決である。(P.3)
総力戦体制で平等になる。
’20〜’30年代の政治潮流
- 国防国家派:陸軍統制派、商工官僚、財閥。上からの軍需工業化で結果的に平等化、画一化
- 社会国民主義派:下からの平準化。東亜共同体
- 自由主義派:民間企業の自立。統制を望まない
- 反動派:陸軍皇道派、海軍艦隊派、観念右翼、地主。民主化で既得権を失った
上ふたつは総力戦体制で得をする。下ふたつは損をする。
右/左で言えば、社会国民主義派が左だが、国防国家派と利害が一致する。どちらも大きな政府指向。
社会国民主義派と国防国家派の連合は東条内閣の成立でピークを迎えるが、国内での総力戦化へのいっそうの進展と国外での軍事的敗退のはじまりによって、東条内閣の後半には、総力戦体制に否定的な反動派と自由主義派の連合が台頭した。四五年二月に出された「近衛上奏文」は、まさにこの反東条連合のマニュフェストであった。
近衛の主張の主旨は、現在政治をおこなっているグループは私有財産を侵し、家族制度を侵し、労働者の発言権を増大させているということに尽きる。<…>つまり、私有財産を侵すものに反対するということを通して、総力戦体制の根幹的な問題にふみこむものであった。
総力戦体制では現実に富を生みだし、労働する者が、相対的に地位を向上せざるをえないのである。したがって、従来の地主や資本家の思うがままの体制に対抗して労働者の福祉や保険の制度、地主の持ち前をいちじるしく削る食糧管理制度等々がつくられて、労働者や農民の経済的、社会的地位が向上した。それが、近衛上奏文の「労働者発言権ノ増大」という表現にあらわれている。
また家族制度を侵すというのは、総力戦・総動員体制の中で、女性労働力の社会への進出、女性の社会的地位の向上を意味した。(P.12)
好戦=右=資本主義、反戦=左=社会主義のイメージがあったが、そうでもないと。
パソコン本
■『実践Web Standards Design』。ウェブもできるようにならんとな、ということで、評判良さげなのを購入。いままでHTMLはよくわからんまま行き当たりばったりにやってたが、見通し良くなった。
■『入門DTP演習 INDESIGN CS3』。未だにOS 9ベースで仕事してるがInDesignもやっとかんとな、ということで購入。この本自体の制作過程を教材にしてるんで実際的。これと別に網羅的な本も必要になるけど、リファレンスやケースバイケースのマニュアルだけじゃ実作業の進め方はわからない。
これも良い本だった。もうInDesignいけるよ。そうなると9ベースで仕事するのはヤになるが、やらざるをえず。
■リファで気付いたんだがBlog-Headlineとかいうとこで、前書いたエントリーが投票対象になってた。ここに“ノーマル : 刀狩りにあった”がある。上に登るとこんなサイトだった。
商用サイトでスタッフの選択のもと、Good/Bad2択の投票対象にされてんのは、なんか釈然とせん部分があるなあ。