『占領と改革』

占領と改革 (岩波新書 新赤版 1048 シリーズ日本近現代史 7)雨宮昭一『占領と改革』読んだ。
 戦後民主教育にどっぷり浸かって育ったのだが、あとになって思えば俺らの思考はGHQの思惑どおりに作られてんじゃないか。軍部だけが悪いってことになって、民主主義の主権者であるはずの国民と、逆に頂点の天皇は免罪されて、責任を取り損ねた。「戦争はイケナイ、上の人間が暴走してやったことで庶民は常に被害者だ」と考えるようになった。
 庶民って言葉は使わなくなったけど未だに「お上VS庶民」の構造はあって、庶民はお上に文句言ってればいいと思ってて主権者の自覚を持たない。
 GHQの思惑どおりじゃなさげなとこは、戦後民主教育が左なこと。片っぽではアメリカ文化にしっぽり染まったが、片っぽで反米もある。そのへんがわからない。
 なんにせよ自分のベースには、戦後処理が大きくかかわってる気がする。
 
 そういうことで買ったんだが、この本の主旨は、これまでの占領政策の評価に対する反論だった。日本はアメリカの占領で民主化・近代化されて良かった、ということになってるが、そういう評価はどうなんだと。日本の民主化はホントにアメリカのおかげか、アメリカがいなくても近代化できたんじゃないかと。
 そもそも占領政策そのものをよく知らないので、そっから先の話をされてもわからない。
 わからないが、この本の視点にはヒリヒリ来るものがある。例えばこれ。

<…>アメリカ政府ではアメリカが中心となって日本を占領し、ソ連とイギリスと中国で分割統治をするという案を考えていた(五百旗頭真『米国の日本占領政策』下)。しかし、この五百旗頭の議論もそうだが、敗戦が早まって分割されなかったのは非常にラッキー(幸運)だったと強調されることが多い。しかしラッキーだったという視点でよいのか。それよりも、もし分割された場合には、異なった展開が考えられて、必ずしも悲惨な状況というばかりではないあり方があったのではないか。(P.22)

 歴史が好きな人って、人物が好きな印象がある。誰が、どう考えて、どうなったか、キャラ寄りで考えてる感じがする。この手の、誰かの意志が歴史をドライブする「意志ドリブン」みたいなのには違和感がある。フィクションでもそうで、かわぐちかいじ『ジパング』に全然のってけないのも、人物優先・意志ドリブン史観だから。自分のことも自分でわかんなくて意志どおりには動かないものなのに、政治みたいなデカいとこでそんな単純にことが進むんだろうか。権力者が歴史に大きな影響を与えるのは当たり前にしても、そのうしろには民衆やら周囲の状況やら、いろんなファクターがあるはずだ。上で引用した文章には、いろんなファクターといろんな可能性が折り込まれてる。「分割統治されてたらされてたで、違う未来があったんじゃないの?」なんて、なかなか言えない。でも、そういうもんだと思う。だもんで、視点に信頼がおけるこの本は、入門書として読んでも面白かった。
 
 読んだはじから忘れちゃうんで、これからはノートを取ることにする。
 

<…>農村と都市、ジェンダー等々を含めたさまざまな格差と不平等は、一九三〇年代以降も存在した。とくに一九二九年から始まる世界大恐慌の中では、この格差と不平等が緊急に解決すべき問題として出てくる。この問題の解決には三つの方法があったと考えられる。第一は社会運動による解決、第二は社会の中の支配層の進歩的な勢力と社会の中間層以下との連合による解決、第三は総力戦体制への参加による平等化と近代化、現代化による解決である。(P.3)

 総力戦体制で平等になる。
 
’20〜’30年代の政治潮流

  • 国防国家派:陸軍統制派、商工官僚、財閥。上からの軍需工業化で結果的に平等化、画一化
  • 社会国民主義派:下からの平準化。東亜共同体
  • 自由主義派:民間企業の自立。統制を望まない
  • 反動派:陸軍皇道派、海軍艦隊派、観念右翼、地主。民主化で既得権を失った

上ふたつは総力戦体制で得をする。下ふたつは損をする。
右/左で言えば、社会国民主義派が左だが、国防国家派と利害が一致する。どちらも大きな政府指向。
 

 社会国民主義派と国防国家派の連合は東条内閣の成立でピークを迎えるが、国内での総力戦化へのいっそうの進展と国外での軍事的敗退のはじまりによって、東条内閣の後半には、総力戦体制に否定的な反動派と自由主義派の連合が台頭した。四五年二月に出された「近衛上奏文」は、まさにこの反東条連合のマニュフェストであった。
 近衛の主張の主旨は、現在政治をおこなっているグループは私有財産を侵し、家族制度を侵し、労働者の発言権を増大させているということに尽きる。<…>つまり、私有財産を侵すものに反対するということを通して、総力戦体制の根幹的な問題にふみこむものであった。
 総力戦体制では現実に富を生みだし、労働する者が、相対的に地位を向上せざるをえないのである。したがって、従来の地主や資本家の思うがままの体制に対抗して労働者の福祉や保険の制度、地主の持ち前をいちじるしく削る食糧管理制度等々がつくられて、労働者や農民の経済的、社会的地位が向上した。それが、近衛上奏文の「労働者発言権ノ増大」という表現にあらわれている。
 また家族制度を侵すというのは、総力戦・総動員体制の中で、女性労働力の社会への進出、女性の社会的地位の向上を意味した。(P.12)

 好戦=右=資本主義、反戦=左=社会主義のイメージがあったが、そうでもないと。

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