出すものと出し方

 小学校高学年のとき、ノートにマンガを描きはじめた。タイムボカンシリーズが好きで、ああいう動物メカを描きたかった。子どもがよくやる、ここからビームが出て、ここがドリルになっててとか、そういうやつ。設定画で終わらせず、話のなかで活躍させたかった。
 メカは自分が考えたものだからいいけど、人間を描くのが難しい。だから主人公をカラスにした。しかもすごく簡略化したやつ。
 表紙に「なんとかコミックス第1巻」とか書いて、表3に広告を描いたりして、友だちと先生に無理やり読ませた。
 いまだになにかにつけこんな調子で、人間を描けるようになるなどのまっとうな努力をすっ飛ばして、手っ取り早くブロードキャストの体裁を整えようとする。根がコマーシャル(商業的)でチープ。アートの逆側。

 このブログもそんなふうだったから、普通の日記にしようとしてるが、これはこれでどうも気持ち悪い書き方になってるなと。
 個人的に付けてる日記のなかから、人に見せられるものをこっちにコピペすればいいやと思ったんだけど、なにを人に言ったほうがよくて、なにがよくないのか、なにかにつけてわからない。結局こっちは外向けに書いてる。

 以前のブログの書き方は、ちゃらけてたから下手な文章にするには都合がよかった。
 うまいこと言ってる文章は基本的に危ない。なにかをすっ飛ばしてる可能性がある。だからTumblrでもテキストのリブログが多い人はフォローしてない。
 けど文章書いてると、ついうまいこと言いたくなってしまう。文体がちゃらけてれば格好よくはならないし、わざと下手な言い方にもしやすかった。文章はもともと下手なんだけど、キャッチーになるのを回避するとか、やたら上から目線で偉そうなのを多少なりともごまかすとか、そういうのがやりやすかった。

 っていうか問題はスタイルよりも、意味があることを書こうとしていることと、なのにカラスしか描けないようなことなんだけど。

メンタルとヘルス

 ここ2年ほど調子がおかしいのだけど、最初は胃腸から来た。天ぷらうどんの天ぷらでアウトくらいに油ものに弱くなった。唐揚げ、ハンバーグ系は危険。ラーメンなんて言うまでもなし。食べ終わった10数分後くらいに急激に胃腸が活動しだして不安定な状態になる。
 内科へ行ってバリウム飲んだりしたが、別に異常はないと。なら心因性かと思ったころに丁度、武田製薬がストレージってシリーズの漢方を展開していて、広告がよく目についた。中身はもともとある漢方薬で、売り方を変えた感じ。近所の心療内科は漢方もやってるそうだから、医者から処方してもらえば保険効いて安くついていいかなと思って行ったのが通院のきっかけ。
 行ってみたら漢方より西洋医学の抗不安剤を勧められた。どっちにするかはこっちで選べるのだが、専門家が勧める方に従った。
 そしたらあんた。見事になんもかんも解決した。化学の力で不安を消すと、おなかの調子も良くなる。ストレスはこうも体に影響するのかと思い知らされた。
 けど、それも続かない。薬の効力より不安の方が強かった。新しく薬が追加されたが、これはこれで若干まずい副作用が出て中止になった。もとの薬だけに戻ると充分じゃない。そんなこんなで今も腹具合に不安を抱えている。

 このところ珍しく忙しくしていた。忙しいと追い立てられる感じが当然するのだけど、やることがあると紛れる面の方が強い。
 途中、それ関係で知らない人と打ち合わせをするかもしれないことがあって、てきめんにおなかの調子を崩した。結局打ち合わせはなかったんだけど。

 忙しいのが終わると、緊張が切れて何もかもやる気を失った。忙しい間ほったらかしてた掃除とか、しなきゃいけないことがあるんだけど。
 今日は朝7時前に目が覚めて、おはスタを見て、ゴミ出しをサボって二度寝して、ネット巡回すらやる気がなくゼルダやったりしてた。
 ゲームは落ちてるときでもできるっていうか、落ちてるときとの相性がいい。ゲームは非生産的な行為だけども、その中では確実に何かが進み、それが良し悪しな感じがする。

いつもの調子はずれ

トロピカルダンディー(紙ジャケット仕様) 3年前からちょっと何かに希望を見出しては失うということを何度か繰り返して、若干おかしくなった。
 新しく起きることは、新しいストレスになる可能性がある。もうこれ以上のストレスはカンベンってことになってるらしく、前もって過剰に緊張する。そういう考え自体やめときゃいいのに、なってしまう。
 定例でやってる仕事は既知のことだから問題ないが、それ以外がしんどい。遊びでも待ち合わせをするのに緊張する。ひどいときはメールが来るのも、電話が鳴るのも、玄関の向こうで人の声がするのもよくないことの予兆に思える。手が震えたりする。そんで病院行って薬もらってる。
 ここまで来ちゃったのは原因がある。自分だ。手を打つのが遅れた。突き詰めれば性格が悪いから失敗している。この客観的に正しいと思える原因がまたしんどく、自覚したところで簡単に正せるものでもない。まして状態が悪いときは性格がひねくれがちで、よくするのは難しい。
 不況だから新卒でも転職でも何十社と面接受けて普通らしいが、日本の奇っ怪な就活の中、そんだけ否定されまくったら壊れて当たり前だと思う。年間3万人が自殺してるのは凄いけど、これで済んでてマシなのかもしれない。
 引き籠もりに対して、人と関わることを恐れていたら何も進まないとか言うけども、彼らの多くはストレスにさらされた結果そうなったんだろうから、マッチョに正論ぶってもなと親近感持ったりもする。
 ここ数日、救いがあって、でもまたそこから落ちて。頭に浮かぶのは細野さんの『漂流記』の歌詞、「どんなにうまくやっても いつもの調子はずれ」。
 客観的に考えればよくある何でもないことで、深く考えないよう努めて、細野さん聴いてたら、逡巡してるけど洒落て軽妙な歌詞で多少やけくそな元気が出てきた。

現在のテーマ曲


 
■原発事故以来、とある特撮関係の暗い歌が頭の中でリピートして困ってたんだけど、この曲を思い出して入れ替えに成功した。
 問題はどこか当ててみよーう。泣き虫毛虫、みんな行こう一緒に行こう。

SF

■ごはん作りながら、放射性物質を流すために野菜を洗うなんてSFマンガみたいだなあと思った。
 だいたい原子力自体SFっぽい。未来的な超技術。
 「日本の原発は安全」って、鵜呑みにしてたわけじゃないけど、ある程度は信じてた。多くの人もそうで、だから原発を容認してたんだと思う。
 なんに関しても、知識がないなら自分の印象より専門家の話を信じる方が、正解に近付く確率は高い。専門家にもヘンな人はいるし、利害やイデオロギーでバイアスがかかっていたりするから、その分は差し引くとしても。
 チェルノブイリの頃テレビで、反原発の人が「100%安全か」と問うのに対し、原発の人は「100%というのはない。定量的な話をしましょう」とか言ってた。そりゃそうだわなと思った。
 100%はないので事故の可能性がある。可能性があるなら対処法も練られてると思ってた。
 そしたらあんた、煙が上がってるのになにが起きてるかわからない。水をかけられるものを掻き集めてきて様子見ながら冷やす。被爆覚悟で作業。まるっきり場当たり的じゃん。
 なにせこっちは専門知識がないもんで、核なんてものがある以上、ミサイル落ちたあとでも行動できる車両とか防護服とかSF的アイテムがあるもんだと思ってた。でも、そんなもんはなくて、原子力だけがSFだった。さらには対策さえまともに準備されてなかった。まあ「安全」なんだから対策もいらないってことかもしれんけど。
 原子力って実用の域に達してなかったんだなあと思った。だって今、コントロール不可能な怪物になってるじゃん。
 今回を教訓に安全対策が進むとは思うけど、どっちみちこれは無理でしょう。さらに想定外のことが起きるかもしれないし。今すぐ原発全部停めるのは無理にしても、他の方法にシフトしていかないと。
 
 あと「消費冷やすな、経済回せ」みたいなのよく見るし、短期的にはそうだと思うけど、今の消費生活維持するための原発だったんだし、目先の便利を取って危険から目を逸らした結果がこれなわけでしょう。根本的に消費やら経済やら見直す機会だと思うけどな。

視覚の記憶

■今の部屋に越して1年半以上経つが、前に住んでた辺りのなんでもない風景が、脈絡もなく浮かんでくることがある。なんとなくあそこにはもう行けないんだなと思ったりする。残念なわけでも懐かしいわけでもない。行けば行けるし、用がないから行かないだけだし。ただ突然ぼんやり浮かぶのが妙で、何かしらのぼんやりした感情は起きる。
 引っ越すたびにこうなる。また引っ越したら、今度はここら辺のなんでもない景色がぼんやり浮かぶんだろう。その記憶が今ぼんやり自覚なく積み重なってるんだと思うと、それもなんか妙だ。

場所とか

■ウチから三鷹へ行くときは、千川上水沿いに西へ行ってから、武蔵野市役所の前を南下する。
 千川上水ってのはこんなん。ちょっとした春の小川。横が畑だったりして、23区内とは思えない呑気さ。
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 武蔵野市役所周辺も、グラウンドや体育館なんかが集まってて晴れやかで、大きな街路樹が並んでる。
 天気のいいとき自転車で走ってると気持ちいい。おいしいもの食べたとか、いい曲を聴いたとか、そんな感じに似たものがある。
 どっか外国の、都市計画と自然保護がしっかりしたところに住んでたら、こんなもんじゃないんだろう。日常受け取るものがかなり違うんだろうなと思ったりする。
 
 単に自然が多いということなら地方に住めば良くて、でもそうせずに、わざわざ都心部に住んでる時点で、自分の中のプライオリティーが低いことになるが。
 いがらしみきお『かむろば村へ』で、主人公のタケが、郷土料理オタクのみんちゃんのところへ行って、飯を食わせてもらうシーンがある。朝、急に押しかけて出てきたのは、里芋の茎の味噌汁と、ご飯と、大根の漬け物。
「オレビンボだけど いいもの食ってるなぁ〜」
「タケちゃんは うまいうまい 言ってくれるから。」
「え? みんなはうまいとか言わない?」
「田舎の人はね、うまい時は黙って食べるの。」
「そう言えばみんな黙って食べてるよね。」
 都会から来たタケと、もともと住んでる人で、ご飯への接し方が違う。うまいとき黙るのは、感覚的にわかる。説明しようとすると、つまんなくなるのでやめとく。
 “田舎では普通の、うまいもの”があるとする。タケがその“ビンボだけどいいもの”を喜ぶのは、都会では普通じゃない珍しいものだからで、もうひとつはタケが田舎を選んで越して来たからだ。都会を選ぶ人は、田舎に当たり前にあるいいものとは違ういいものを求めて都会にいるわけだから。
 あれ? 引用までしといて、何が言いたくてこの部分を書き始めたのかわからなくなってしもた。
 
 あんまり関係ないけど、最近“パワースポット”って言葉をよく目にする。なんか「元気もらいました」に繋がる気がして感じ悪い。
 前も書いたけど「元気もらいました」ってもともと、歌手とかスポーツ選手とかが、ファンに対して言う言葉だったんじゃないかな。本人に届いてるのか、意味があるのかわからない応援に対して、届いてますよ、あなた方の声援があるから私は輝けるのですよと。
 ファンの側が「元気もらいました」って言うと、主従というか上下が逆転する。「あなたの行動や作品は、この私の得になりました」になる。あんた何様で、なんでいちいち損得に勘定するのかと。
 昔から作品や有名人の行動に勇気付けられることはあっただろうけど、こんな気持ち悪い言い方してなかったと思うなあ。
 そんでパワースポット。そこへ行くと気分が良かったり、神妙な気持ちになったりする場所はある。そこで感じるのは大きな存在に対する畏敬の念だと思うが、その辺が軽くて、元気もらったり癒されたりの、“私の得”に収められてる気がする。