橋本治と響鬼

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amazon橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』
 「日本人は」と言うとき、高みから俯瞰してものを言うか、「われわれ日本人は」みたいに内側から勝手に代表者になるかだけど、橋本治の場合は、日本人がよその人みたいなニュアンスがある。上からでも中からでもなく、よそから見てる。
 この人の本読んでると、よそに連れて行かれるから怖くなる。
 
■関係あるようなないような話だけども、響鬼。
 ウチの父親は会社員で、俺は子どもの頃、会社員というのが何をやってるかわからんかった。背広を着て出かけて、酔っぱらって帰ってくる。その間に何をやってるのかわからない。マスオさんのようなものだろうと思うんだけど、マスオさんが何をやってるのかわからない。自分が学校に行くように会社に行って、時間を売って給料をもらってくるんだろうと思ってた。それはまあそれで間違いじゃない。
 世の中のお父さんのほとんどはサラリーマンだから、「サラリーマン」という言葉を使うのも主にサラリーマンだった。そんで「サラリーマン」には自虐的なニュアンスがあった。歯車であるとか。会社では上司に、家では妻に、やいやい言われる。日曜日は寝てよう日で、ごろごろして邪魔にされる。家は母親が仕切っていて、家族から見れば給料を運ぶだけの存在。そういうものであると、当のお父さん自身が位置付けてた。
 当然というかなんというか、息子である俺的には、父親が、父親の仕事が、まるで魅力的に見えない。っていうか、つまらないものだと思えた。
 父親みたいになりたくないなあと思いながら育つ。思うだけで言いはしないが(もしかしたら、なんかのひょうしに言ったかもしれんが)、父親はそれを察知して、「お前はつまらないと思ってるかもしれないが、俺にだって楽しいことはあるんだ。ゴルフとか」って言い出すから、なおさらつまらないなあと思う。
 そんなこんなで父親みたいなサラリーマンを避けて、ジャンル分けとしては「マスコミ系」であり「クリエイター系」の職に就いたんだけど、こないだまで会社員でもあった。一部、エッジな人々を除けば、クリエイターも単に専門職であって、ほかとそんなに違わない。自分が知ってる狭い範囲で言えば、どの仕事でも大事なのは気を利かせることだろう。自分に何が求められてるか察知して、その通りやる能力。求める相手は上司、クライアント、エンドユーザーといろいろあるからややこしかったりはする。それと、何が求めてられてるかわかった上で、その通りやらないという選択肢もある。けどとにかく、誰が何を求めてるかわかんないと、ズラしていい幅もわからない。
 なんにしてもニーズを気にしないでやりたいことをやってお金がもらえるというのはラッキーというか特殊というか難しい状況で、普通は人様の要望に応えるからこそお金がもらえる。誰かの意に沿うから、誰かがお金を払ってくれる。そんな当たり前のことが子どもの頃はわかんなかった。
 あらかじめお金が唸ってるんでなきゃ、残念ながら、どうにかして稼がなきゃいけない。人それぞれ稼ぐ手段が必要で、それぞれ手段は違うが、おおむね変わらないっちゃー変わらない。人のためになんかやって、人からお金をもらう。父親の仕事にどのくらいの面白みがあって、どのくらいつらかったのか知らないが、取りあえず俺の仕事と全然違うものじゃないだろうと思う。父親は父親なりに生活の維持を考えたんだろうし、俺は俺なりに持続できる仕事を模索してる。
 それで思うのは、俺らの親の世代のサラリーマンが自虐的だったことは、結果的にあんまりよくなかったなーってこと。ホントに「結果的」で、今だから言えることだし、今言ってもしょうがないんだけど。つらさも誇りも素直に伝えてればよかったのに。
 『13歳のハローワーク』は読んでないけど、「キミたちの可能性はいろいろあるよ」みたいのはもう足りすぎてるんで、周回遅れに見える。
 
 そんで響鬼だけども、響鬼は働くおじさんだった。人のために仕事をしてた。仕事ってのはクビにならない範囲で手を抜けるものだけど、「鍛えてますから」は、真摯に仕事に取り組んでるってことだった。響鬼は働くおじさんの背中を見せてた。これこそが足りないものだった。親が見せてくれなかったものだった。
 響鬼はヒーローで、特殊な才能であって、若者が憧れるに足る存在だけど、みんなが鬼になる必要はなかった。立花でお茶を運ぶのだって、ひとつの立派な役割だった。ヒーローチームが資金集めのために地道に飲食店やってるのは、面白さを狙っただけの設定じゃないだろう。少年がブラバンでドラムを担当できなくても、ホイッスルという役割を果たせばよかった。明日を夢見る少年としては当然面白くないが、実際やってみれば思い通りにならなかったりするもので、同様に鬼の素質があるかも謎だ。それでも少年なりに鍛えて、自分の場で、自分にできる、自分のやるべきことをやればいい。
 だから劇中であきらが鬼になる必要もなかったし、少年が弟子にならなくてもよかった。
 一方で30話以降のあきらのセリフ「私は鬼になれるんでしょうか?」は自己実現の話で、それはもう足りすぎてる話だし、自分の才能との格闘もなかった。「あるべき私に私はなるはず」っていうのは、単にぬるい話なんだよ。

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