カテゴリー: 書籍

  • 9条どうでしょう

    amazon■著者は内田樹、町山智浩、小田嶋隆、平川克美の4人。左右の枠から外れたというか、改憲にこれまでと違う視点を持ち込む本。
     町山さんのが凄く具体的でわかりやすく、面白かった。そもそも憲法ってどういうもんよ?ってとこから知らない俺みたいなのにはありがたい。
     っていうか他の人のはあんまり面白くなかった。町山さんとこだけ凄くオススメ。人によって感想違うだろうけど。
     俺は、よくわからないながら今のところ改憲した方がいいんじゃないかと思ってて、ただ、今この流れでやってほしくないなーとも思ってて、その辺だいたい平川克美と同じ思い。
     あと、改憲するなら天皇制のメリット・デメリットは検証し直すべきなんじゃないのかな。オカルトでしょ。気持ちの問題でしょ。合理的じゃないでしょ。9条を合理的に変えるなら、こっちも合理的にした方がいいんじゃないの。不平等だし。オカルトにはオカルトの機能があって、それは無視できないし、せっかく続いてきたものを表面上非合理だからってやめるのもどうかと思うが、「伝統」のひとことであっさりオカルトをOKにしちゃうのはわけわからん。日本人は一般に無宗教と言われてるのに。リアリストを自称したりもするのに。

  • ジョン・W. ダワー『人種偏見』

    anazon■副題が「太平洋戦争に見る日米摩擦の底流」。人種の面から見た太平洋戦争。初版は’87年。出たときに話題になってたのかもしれない。
     第一部は全体の俯瞰。日米お互いにクソミソ言い合っていたわけだけど、悪口には根拠があってデタラメじゃなかった。お互い実際ひどかった。つまりはお互い様だった。相手をひとまとめのステレオタイプにはめるっつーのは反日・嫌韓の人らが今もやってることで。進歩がない。
     第二部はアメリカが日本をどう思ってたか。自分がどう思われてるかは誰しも気になるところで、日本人的にはここが一番面白い。うんざりするほど日本人がクソミソに言われる。「黄色い猿」に差別が含まれてると知ってはいるんだが、実感としてどんなふうかはわかってなかった。太った人をブタ呼ばわりするのとどう違うのかピンと来ない。そのへんが、うんざりするほど読めばなんとなくわかってくる。概要まとめたり、どっか抜き出して引用したところで「そんなのは知ってるよ」ってことになっちゃうんで、やっぱりうんざりするほど読まないと。
     妙だったのは、日本人は平衡感覚に欠陥があるから航空機の操縦に向いてないと思われいて、その原因は乳児のとき、背負われてシェイクされるからじゃないかと言われてたこと。
     もうひとつ。日本人が精神的に未発達なのは、子供の頃の厳しすぎる排便のしつけにあると説明されてたらしい。厳しすぎるってどういうことだろう。欧米はどうしてたんだ? それか当時の日本は、今はなくなった異常に厳しいしつけをやってたのか?
     第三部は日本からみたアメリカ。なのだが、単純に裏返しにならない。欧米は現に勝ってたから、白人から見て白が優秀なのは自明のことだった。一方、日本は遅れてきて欧米から学んでる立場だから、黄色人種の方が優れているとは言えない。で、精神的に優れていると主張し、アジアの白人になろうとした、って話。
     第四部は戦後の話。これがないと話はまとまらない。まとめに向けて、こじつけた感じがしないでもない。それでも興味深くはある。
     気持ちの問題は客観的に扱いにくいもので、歴史関係の本としては比較的怪しい部類になるのかもしれないけど、実利の面であーなってこーなってって話より、よっぽど今に繋がる流れがわかる感じで面白かった。

  • 「かわいい」論

    四方田犬彦『「かわいい」論』読んだ。
     今さら「かわいい」かー、とも思ったけど結構オモロかった。書き方が凄く普通なのが新鮮だった。語源を遡る、過去の作品にあたる、アンケートを採る。
     「かわいい」はかわいくないものに対するバリアで、同じ感覚を共有できる人間を結び、できない人間に対するバリアだから、内側から語ろうとすると感覚の微妙さを細かく掘ることになる。萌えもそうだけど、いかに特殊でわかりにくいものであるかを説明するっていう少々変なことになる。一般化ができない。一般化からこぼれた微妙な部分こそ大事だから。
     この本は内側から書いてない。共感をベースにもしてない。だからぐちぐちしてない。

    またわたしは「オタク」と呼ばれている年少者が饒舌に口にする、部外者の介入を許さない衒学的討議には何の関心も抱いていなかったし

    あとがきにこう書いてある。「年少者」って切り方が冷たい。萌えに触れてる部分はオタであれば突っ込みたくなる感じだけど、そういう細かいことはいいじゃん、と。実際読んでて「あー、これがまっとうな書き方だよなー」と思った。

  • 橋本治と響鬼

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    amazon橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』
     「日本人は」と言うとき、高みから俯瞰してものを言うか、「われわれ日本人は」みたいに内側から勝手に代表者になるかだけど、橋本治の場合は、日本人がよその人みたいなニュアンスがある。上からでも中からでもなく、よそから見てる。
     この人の本読んでると、よそに連れて行かれるから怖くなる。
     
    ■関係あるようなないような話だけども、響鬼。
     ウチの父親は会社員で、俺は子どもの頃、会社員というのが何をやってるかわからんかった。背広を着て出かけて、酔っぱらって帰ってくる。その間に何をやってるのかわからない。マスオさんのようなものだろうと思うんだけど、マスオさんが何をやってるのかわからない。自分が学校に行くように会社に行って、時間を売って給料をもらってくるんだろうと思ってた。それはまあそれで間違いじゃない。
     世の中のお父さんのほとんどはサラリーマンだから、「サラリーマン」という言葉を使うのも主にサラリーマンだった。そんで「サラリーマン」には自虐的なニュアンスがあった。歯車であるとか。会社では上司に、家では妻に、やいやい言われる。日曜日は寝てよう日で、ごろごろして邪魔にされる。家は母親が仕切っていて、家族から見れば給料を運ぶだけの存在。そういうものであると、当のお父さん自身が位置付けてた。
     当然というかなんというか、息子である俺的には、父親が、父親の仕事が、まるで魅力的に見えない。っていうか、つまらないものだと思えた。
     父親みたいになりたくないなあと思いながら育つ。思うだけで言いはしないが(もしかしたら、なんかのひょうしに言ったかもしれんが)、父親はそれを察知して、「お前はつまらないと思ってるかもしれないが、俺にだって楽しいことはあるんだ。ゴルフとか」って言い出すから、なおさらつまらないなあと思う。
     そんなこんなで父親みたいなサラリーマンを避けて、ジャンル分けとしては「マスコミ系」であり「クリエイター系」の職に就いたんだけど、こないだまで会社員でもあった。一部、エッジな人々を除けば、クリエイターも単に専門職であって、ほかとそんなに違わない。自分が知ってる狭い範囲で言えば、どの仕事でも大事なのは気を利かせることだろう。自分に何が求められてるか察知して、その通りやる能力。求める相手は上司、クライアント、エンドユーザーといろいろあるからややこしかったりはする。それと、何が求めてられてるかわかった上で、その通りやらないという選択肢もある。けどとにかく、誰が何を求めてるかわかんないと、ズラしていい幅もわからない。
     なんにしてもニーズを気にしないでやりたいことをやってお金がもらえるというのはラッキーというか特殊というか難しい状況で、普通は人様の要望に応えるからこそお金がもらえる。誰かの意に沿うから、誰かがお金を払ってくれる。そんな当たり前のことが子どもの頃はわかんなかった。
     あらかじめお金が唸ってるんでなきゃ、残念ながら、どうにかして稼がなきゃいけない。人それぞれ稼ぐ手段が必要で、それぞれ手段は違うが、おおむね変わらないっちゃー変わらない。人のためになんかやって、人からお金をもらう。父親の仕事にどのくらいの面白みがあって、どのくらいつらかったのか知らないが、取りあえず俺の仕事と全然違うものじゃないだろうと思う。父親は父親なりに生活の維持を考えたんだろうし、俺は俺なりに持続できる仕事を模索してる。
     それで思うのは、俺らの親の世代のサラリーマンが自虐的だったことは、結果的にあんまりよくなかったなーってこと。ホントに「結果的」で、今だから言えることだし、今言ってもしょうがないんだけど。つらさも誇りも素直に伝えてればよかったのに。
     『13歳のハローワーク』は読んでないけど、「キミたちの可能性はいろいろあるよ」みたいのはもう足りすぎてるんで、周回遅れに見える。
     
     そんで響鬼だけども、響鬼は働くおじさんだった。人のために仕事をしてた。仕事ってのはクビにならない範囲で手を抜けるものだけど、「鍛えてますから」は、真摯に仕事に取り組んでるってことだった。響鬼は働くおじさんの背中を見せてた。これこそが足りないものだった。親が見せてくれなかったものだった。
     響鬼はヒーローで、特殊な才能であって、若者が憧れるに足る存在だけど、みんなが鬼になる必要はなかった。立花でお茶を運ぶのだって、ひとつの立派な役割だった。ヒーローチームが資金集めのために地道に飲食店やってるのは、面白さを狙っただけの設定じゃないだろう。少年がブラバンでドラムを担当できなくても、ホイッスルという役割を果たせばよかった。明日を夢見る少年としては当然面白くないが、実際やってみれば思い通りにならなかったりするもので、同様に鬼の素質があるかも謎だ。それでも少年なりに鍛えて、自分の場で、自分にできる、自分のやるべきことをやればいい。
     だから劇中であきらが鬼になる必要もなかったし、少年が弟子にならなくてもよかった。
     一方で30話以降のあきらのセリフ「私は鬼になれるんでしょうか?」は自己実現の話で、それはもう足りすぎてる話だし、自分の才能との格闘もなかった。「あるべき私に私はなるはず」っていうのは、単にぬるい話なんだよ。

  • デートレフ・ポイカート『エーデルワイス海賊団』

    エーデルワイス海賊団 副題は「ナチスと闘った青少年労働者」。独裁体制下で言うこと聞かなかった若者たち、エーデルワイス海賊団の記録。資料の羅列だから退屈なとこもあった。
     
     エーデルワイス海賊団は、共産趣味ではあったようだが政治性は薄く、抵抗運動をしていたとは言い難い。単にヒトラー・ユーゲントがマヌケのくせにデカい顔してて気に入らんから殴ってたようだ。
     統一された組織でもなく、日本で言えばカミナリ族とかタケノコ族とかトミノコ族とか、その種の自然発生的なもので、基本的にはハイキンググループだった。
     ハイキング用のハデなチェックシャツ、白のハイソックス、皮の半ズボン、赤いスカーフ、鋲の付いたベルト、エーデルワイスのバッジを身に付けていた。「ハイキング伊達男」とも呼ばれる。
     日本語にすると、どうにも妙。伊達男って。大体、海賊って。英語だとパイレーツだからなんとなくニュアンスはわかるが、日本語には「海」が入ってて違和感がある。
     しかもハイキング。不良がハイキング。親の目を離れて行動できるメリットはわかるが。
     ヒトラー・ユーゲントは男子のみ、女子はBDM(ブント・ドイチャー・メーデル)と分離されてたのに対し、エーデルワイス海賊団では異性と楽しくやれて、ヤれたりするのも魅力だったようだ。ヒトラー・ユーゲントは余暇の活動まで規定してたらしいから、そりゃまあ、やっとれんだろう。
     ナチスをからかう替え歌を歌い、公園に「打倒ヒトラー」と落書きして回る団体が終戦まで存続してるのが不思議だが、ちゃんとした組織じゃないから解散させることもできなかったらしい。それに、若者は反抗したいものだし、一時的な行動だから、適切に指導してやればまっとうになるよと考えてたようだ。理解があるとも言える。若者は野外でのびのび遊びたいものなのに、ヒトラー・ユーゲントは彼らの要求に応えられていないという体制側の自己批判まであった。やっぱり若者はハイキングなのか。あたしゃ高校のときワンダーフォーゲル部だったけどね。若者として正しかったんですかね。「歩く文化系」と呼ばれて運動部扱いしてもらえなかったけどね。
     
     海賊団のスタイルは、それ以前に存在した「ブント青少年」を踏襲してるようだ(日本にもブントという組織があるが、「ブント」は「同盟」の意味らしいからたぶん関係ないんだろう)。この本を読む限りではブント青少年の方が組織化されていたらしいことくらいしか海賊団との違いがわからない。ブント活動が禁止されたあと、不良がブントのスタイルを真似たらしい。
     ユースホステル運動研究室・リヒアルト・シルマン先生の生涯によると、ワンダーフォーゲル運動やユースホステル運動には、急速に高度化する資本主義の中で、自然回帰・人間性の回復を図る意味があったらしい。ブントもこの流れなんだろう。ナチスにも自然回帰の指向性はあったようだし、こういう時代だったのか。
     松岡正剛の千夜千冊『ドイツ青年運動』を見ると事情はもっと複雑だったみたい。ここではワンゲル→ブント→ナチスと繋がってる。しかし、ナチスはブント活動を禁止した。ブントがヒトラー・ユーゲントに吸収されたあと、「本来の」ブントへの回帰を指向したのが海賊団なのか。
     
     別の不良集団「スウィング青少年」も面白い。

     正式のメンバーと認めてもらうには誰でもスウィング青少年の慣習や服装、目印を受け入れねばならず、男子の場合にはしばしば上着の襟まで達する長髪(髪の長さは二十七センチ)によって正式メンバーと認められた。メンバーは主として丈の長い、チェックの模様の入ったイギリス風の上着を着用していた。靴は厚めの、明るい色のクレープ加工底のもの、派手なマフラー、ハンガリー外交官が被っているような帽子、腕には天候とは無関係に常に雨傘、ワイシャツのボタン穴には目印のカラフルなカウスボタン、といった格好だった。
     女子も波打つような長い髪型を好んだ。眉を引き、口紅を塗り、爪にはマニュキアをしていた。
     メンバーの態度も服装と同じく酷いものだった。
     彼らの言葉使いもスウィング青少年の本質を特徴付けていた。彼らはお互いを「スウィング・ボーイ」、「スウィング・ガール」と呼び合っていた。手紙の結びの挨拶は「スウィング万歳」であり、スローガンは「のらくら暮らす」だった。そのために「のらくらクラブ」とも呼ばれていた。「のらくらボーイ」や「のらくらガール」の日記には、「午後は<のらくらして過ごした>」、という文章がよく見られた。彼らの理想はのらくら生きることである。ある日記には「かくしてわれわれはステキなバー・スウィングで早朝までのらくらしていた」とあった。もっと頻繁に見られた表現は「ホットジャズを踊った」、「ホットジャズ」、「ホットジャズ・パーティー」などだった。
     スウィング徒党のイギリスかぶれぶりをさらに特徴付けているのは彼らのイギリス・アメリカ音楽、特に現代ジャズへの熱狂ぶりであり、彼らのホット・ミュージックとの関係は一種の精神病と見なされる。この黒人音楽への偏愛がこの種の多くの若者たちを繋ぎ止めている主要な絆だった。この音楽、そしてこの音楽と結びついたダンスが娯楽の主たる対象だった。ダンス禁止令が出されていた間は酒場で踊ることはできなかったので、音楽に合わせて歌をうたい、腕を動かしてリズムを取っていた。そうした青少年グループの光景は「気のふれた狂人の舞踏病の一団」に似ていた。

     まさにサブカルチャー。「酷いもの」とか「気のふれた」とか否定的なのは体制側の文書だから。「スウィング万歳」は「ハイル・ヒトラー」のもじり。この時代、こんなんよその国でもあったのかね。俺ものらくらしていきたい。仕事しないぞ! 黒人音楽で踊るぞ! 反体制だ! サボタージュだ!

  • ロバート・N・プロクター『健康帝国ナチス』

    健康帝国ナチス ナチスは健康オタだった、という本。健康に対する先駆的な研究や取り組みも多い。食品添加物を減らそうとしたり、アスベストやタバコの肺ガンへの影響を早くから指摘してたり。ヒトラー自身が基本的に菜食主義で、酒もタバコもやらなかった。
     国民の身体は国家のもの、健康は義務であり、病気は間違ってるから廃絶しなきゃいけない。からではあるけど、こんなふうに収まりのいい解釈をするのは、「単純な評価をするな」と繰り返す著者の意図に反する。
     わりと淡々と事実を追ってる本だけど刺激されることは多いし、今に繋がることもあって面白かった。
     ナチスは動物愛護もやってたみたい。

  • 内田樹 釈徹宗『いきなりはじめる浄土真宗』

    いきなりはじめる浄土真宗いきなりはじめる浄土真宗 インターネット持仏堂 (1)
    はじめたばかりの浄土真宗 インターネット持仏堂 (2)
     
     「俺は生まれてから死ぬまでずっと俺」とか「日本は昔からずっと続いてる」とかって、時間が繋がってると考え過ぎじゃないかと思ってて。
     自分が一貫して自分だというのは思い込みが支えてる。なんてのは極論だけども、なら、時間が繋がってるってのも極論かもしれん。どっちも極論だが、普段、繋がってると考えすぎだと思うから、いっぺん逆に、繋がってないと考えすぎてみたらいいんじゃないか。
     『大戦略』とかのシミュレーションみたいに、ターン制で考えたらどうか。ターン毎に前のターンは忘れることにする。とにかく今、目の前にこういう状況がある。状況に対して自分の反応がある。1ターン終わり。また忘れる。その繰り返し。
     過去のしがらみを切り捨てて「これからどうするのがベストでしょう」だけ考えられれば都合がいいことは多い。過去の罪なんかは、現状ないものなんだから、考えなくて済む。
     実際、人は変わる。時間でも変わるし、状況でも変わる。
     前にも書いたけど、シャーレの中に簡単な生物を入れて、片方に光を当てれば、そっちに集まったり、逆に集まったりする。生物の種類によって反応は決まってる。集まった逆側にエサを入れてみたり、別の生物を放り込んでみたり、状況を複雑にすると、反応も複雑化する。
     複雑な生物である俺がものすごく複雑な状況にいるのも、この延長線上にある。過程と理由はともかく現在の状況はこんなんで、過程と理由はともかく、今現在の俺はこんなんなっちゃってる。犬が吠えてれば避けて通ったり、ネコがいれば寄ってったり、状況に対する反応を繰り返してる。
     車に轢かれたとする。「なぜこんなことになったんだろう」に対して、俺か運転手かがよそ見してたからとか、取り敢えずの答は出るかもしれんが、そもそもその道を通るに至ったいきさつとか言い出すと、どこまでも過去に遡って考えることができる。因果関係が複雑すぎて、結局のところ「たまたま」としか言えない。
     たまたまの状況に対して反応して、次のたまたまが来る。
     とか、考えてたら。

    そもそも仏教思想に拠れば、自由の主体である自己そのものも、実体があるのではなくさまざまな条件や刺激への反応という形で寄せ集められた一時的状態であるとされます。これを仮有(けう)と言います。実有(じつう)の反対です。物体としての存在は、すべて仮に集合している状態、という考え方なのです。ですから仏教から見れば、「自己実現」という概念などは、かなり怪しい、ということになります。確たる自己、統一している自己、首尾一貫している自己がどこにあるかというストーリーに振り回されちゃいけない、と説きます。

     ストーリーだって。
     
     仏教は知らんけど、こんなんだろうと思ってたイメージと、かなり違ってて面白かった。仮有とかいうのはまあ、仏教が言いそうなことだなあと思うんだけど、「そんなこと言っちゃって宗教として成り立つのか?」みたいなことも書いてある。内田樹が、罰をあてるような宗教はつまらない、学ぶべき宗教はそんなものじゃないですよね?的な誘導をしてるせいもあるかもしれん。この流れのおかげで面白くなってるんだけど、なーんか内田樹がかたくなな感じで、タイトルに反して浄土真宗についてはあまりよくわからない内容になってたりもする。食い足りん感じがするんで釈徹宗の『親鸞の思想構造—比較宗教の立場から』を読んでみようと思ったが、6090円だって。ジーザス!