内田樹 釈徹宗『いきなりはじめる浄土真宗』

いきなりはじめる浄土真宗いきなりはじめる浄土真宗 インターネット持仏堂 (1)
はじめたばかりの浄土真宗 インターネット持仏堂 (2)
 
 「俺は生まれてから死ぬまでずっと俺」とか「日本は昔からずっと続いてる」とかって、時間が繋がってると考え過ぎじゃないかと思ってて。
 自分が一貫して自分だというのは思い込みが支えてる。なんてのは極論だけども、なら、時間が繋がってるってのも極論かもしれん。どっちも極論だが、普段、繋がってると考えすぎだと思うから、いっぺん逆に、繋がってないと考えすぎてみたらいいんじゃないか。
 『大戦略』とかのシミュレーションみたいに、ターン制で考えたらどうか。ターン毎に前のターンは忘れることにする。とにかく今、目の前にこういう状況がある。状況に対して自分の反応がある。1ターン終わり。また忘れる。その繰り返し。
 過去のしがらみを切り捨てて「これからどうするのがベストでしょう」だけ考えられれば都合がいいことは多い。過去の罪なんかは、現状ないものなんだから、考えなくて済む。
 実際、人は変わる。時間でも変わるし、状況でも変わる。
 前にも書いたけど、シャーレの中に簡単な生物を入れて、片方に光を当てれば、そっちに集まったり、逆に集まったりする。生物の種類によって反応は決まってる。集まった逆側にエサを入れてみたり、別の生物を放り込んでみたり、状況を複雑にすると、反応も複雑化する。
 複雑な生物である俺がものすごく複雑な状況にいるのも、この延長線上にある。過程と理由はともかく現在の状況はこんなんで、過程と理由はともかく、今現在の俺はこんなんなっちゃってる。犬が吠えてれば避けて通ったり、ネコがいれば寄ってったり、状況に対する反応を繰り返してる。
 車に轢かれたとする。「なぜこんなことになったんだろう」に対して、俺か運転手かがよそ見してたからとか、取り敢えずの答は出るかもしれんが、そもそもその道を通るに至ったいきさつとか言い出すと、どこまでも過去に遡って考えることができる。因果関係が複雑すぎて、結局のところ「たまたま」としか言えない。
 たまたまの状況に対して反応して、次のたまたまが来る。
 とか、考えてたら。

そもそも仏教思想に拠れば、自由の主体である自己そのものも、実体があるのではなくさまざまな条件や刺激への反応という形で寄せ集められた一時的状態であるとされます。これを仮有(けう)と言います。実有(じつう)の反対です。物体としての存在は、すべて仮に集合している状態、という考え方なのです。ですから仏教から見れば、「自己実現」という概念などは、かなり怪しい、ということになります。確たる自己、統一している自己、首尾一貫している自己がどこにあるかというストーリーに振り回されちゃいけない、と説きます。

 ストーリーだって。
 
 仏教は知らんけど、こんなんだろうと思ってたイメージと、かなり違ってて面白かった。仮有とかいうのはまあ、仏教が言いそうなことだなあと思うんだけど、「そんなこと言っちゃって宗教として成り立つのか?」みたいなことも書いてある。内田樹が、罰をあてるような宗教はつまらない、学ぶべき宗教はそんなものじゃないですよね?的な誘導をしてるせいもあるかもしれん。この流れのおかげで面白くなってるんだけど、なーんか内田樹がかたくなな感じで、タイトルに反して浄土真宗についてはあまりよくわからない内容になってたりもする。食い足りん感じがするんで釈徹宗の『親鸞の思想構造—比較宗教の立場から』を読んでみようと思ったが、6090円だって。ジーザス!

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