昨日のコメント(この件)で思い出したというか、直接的には関係あるようなないようなですけども。
貼り板に乳のない女子の画像が貼られると、いちいち「男か?」って言うヤツいるんですよ。2ちゃんでやたら「社員乙」とか言うのもこれに似てる。
なんか、騙されないことに凄い重きを置いてるみたいな感じで。騙されるヤツ=素直なバカ、騙されない俺=裏が読めるおりこうさん、ってことだろうけど。はたで見てると、常に「騙されないぞ!」って戦闘態勢取ってるのはおりこうに思えない。
オレオレ詐欺の人から電話かかってきて、即座に「あら! 息子が大変だわ!」つって送金しちゃう人は具体的にマズいけど、いい人ではあるよな。
「あの野郎ズルいことしてるに違いない!」つっといて冤罪だったら、ズルい考えを持ってたのは疑ってる方で。実際にあの野郎がズルかったときに「まあ、あの人があんなことするなんて(思ってもみなかったわ)……」が上品な態度であって。
「理想はどうあれ、世の中にズルい人はいるのだ」という危機管理的な問題じゃなくて、ズルに近いところにいる人と、遠い人の違いな気がする。
俺もチクイチ疑う方ですけどもね。騙されてる余裕ないしね。
あとネット見てて思うのは、みんな時代読むの好きだねえ。読んでどうすんだろ。
はじめまして。
前半(と言うか大半)は激しく同意で、僕も普段心のどこかで感じていたことです。上手く文章化されて「ああそうか」とはっきりと気がつきました。
>あとネット見てて思うのは、みんな時代読むの好きだねえ。読んでどうすんだろ。
専門分野の開発史などを調べたことがあるのですが、その時に感じたのは科学技術に関することでもその時代の社会背景の影響を強く受けると言うことです。ですから自分の専門(や趣味)などと時代性を結び付けるのは意味のあることで、そのために時代を読もうといるのかなあ、とか思ったりします。
その一方で「○○の作品は時代を上手く読めている」とかいう評を聞くと何だか良く分からない種類の反発を感じるのも確かです。
2行の文章についての感想なので、的が外れていたら御容赦下さい。
私も年表好きで、自分の個人史・趣味と、時代を絡めて見るのが好きだったりします。
なんだかなあと思うのは、外側から俯瞰する「時代を読む」行為です。いわゆる「トレンド」の話。
> 科学技術に関することでもその時代の社会背景の影響を強く受けると言うことです。
これは面白そうな話ですね。
私が何で凄い聞きたかったんだろぉぉ〜と思うと、知り合いの他の方の所でこれが凄い話題になっていて、何でそんなに話題になるのかわからなかったんです。。。そして0ギガって書いたほうがいいよねーってみんながみんなそこの場所ではなってたんです。集団催眠のごとく。。。私は無理あるだろうと思ったんだけ、ここはふじりさんに聞きたいなぁ〜と思って質問しました。
で、私もこの文章書かれて明確に気がつきました。
集団催眠にかかっているそこの文章を読んで、しかもその洗脳?0ギガって書いたほうが無難やな!となっていたあの場所をみて。そして即効性がネットは強力だなって。こんなの前々から分かっていたことかもですが、今回このミュージカルなんちゃらで、凄い見えたというか。。。あ、論点がずれていってしまっている。上手く書けないごめんなさい。
PS*毎度ながらアホっぽい文章ですいません。
補足*そこの部屋と言うか日記ですけどレコード店をやっている人の所なので、こういう事に対して特に危機感を感じているんだと思います。だから分からないわけでもないんだけど。
あーそれに関しては、まあないとは思うけど、
絶対ないとも言えないし、
一般論として、たいして害がないなら騙されとくのも
悪かないんじゃないかってことでして。
まだ食いついてくるかぁぁ〜!!なんですけど、
あの陰謀論、不安を変に掻き立てる部分が気になったんやわ!、細木数子かMMRなのですけど。ふじりさんとか藤田さんとかとパソ通してたのを思い出す文章ですけど。。。。久しぶりにめっちゃ私の中で熱いです。たぶん音楽ラブ!で楽しかったしいいやーんでいいんだけど。
またもやアホ文章ですいません。
『外側から俯瞰する「時代を読む」行為』というのが何を指すのかな、としばらく考えている内に、以前ふじりさんが、
>
>外野の口出しは誰にとっても価値がない。
>高みから俯瞰するのは気持ちいいけど、
>そんなのを「客観的」だとか「批評精神」だとか勘違いするのはカンベンだ。
>語る対象が自分に関係があるんなら、
>高いとこ登らなくても自分の立場から語れることがあるはずだろうに。
>
と書かれていたことを思い出しました(古い文章の引用ですいません)。
「むやみやたら客観的になったつもりになるな」というのがふじりさんの主張で、その流れで「客観的になったつもりで、あたかも部外者であるかのように時代を読もうとしているのが気に食わない」ということなのだと理解しましたが、どうでしょうか?
>
>
私の専門は有機化学なのですが、その発展の歴史は他の分野の科学の進歩とも相関しているのはもちろんですが、生活形態の変化による新しい素材の要求とも絡んでくるし、政治的に緊迫してくれば軍事的な問題(分かりやすい例だと毒ガスの開発)とも関係します。こういう意味で「科学技術に関することでもその時代の社会背景の影響を強く受 ける」ということです。
もっと言えば産業革命時に科学が進歩したのは富裕層の増加や他の作物に比べて手間のかからない小麦の栽培の定着により暇な人間(科学研究ができる人間)が増えてきたことや、宗教的な縛りが緩くなってきて聖書からずれた発想をしやすくなったりしたのも遠因のようです。
この辺は勉強不足なので、かなりいい加減な記述なので話半分で読んでいただきたいのですが、まあとにかく「科学史」というのは学部生の頃に考えていたのに比べて相当に重要なのだ、と博士課程の後期になって気がついた次第です。
ただこれらは科学の視点から見たことなので、「客観性」が要求されてしまいます。逆に言えば「客観的になったつもり」ではいけないのでしょう。科学者には直感の要素も大きいですが、最終的には客観的に理解できる形にしなくてはいけません。
ふじりさんがやられている自分史と社会史を重ね合わせてみる行為も面白そうですね。私も一度やってみることにします。
長くなってしまいましたが、これにて。
●stereo
> あの陰謀論、不安を変に掻き立てる部分が気になったんやわ!、細木数子かMMRなのですけど。
そうそう。ホラーだよね。ホラーとしてはちょっと面白い。健康関係の話もホラーが多いよな。ビビらして興味を惹く。選択肢を限定する。
●Juliusさん
うわー。びっくりしました。そんなの覚えててくださって嬉しいです(こっ恥ずかしくもあります)。
自分が何を書きたかったのか、ちょっと考えました。まず「騙される方が悪い」ってのが気に入らないんです。
それから、知性には敬意を抱くけど、この手の裏読みはアタマがいいと言うより、「小賢しい」んじゃないかと。で、関連して最後の1行付けちゃったみたいです。
時代を読むというのも同様に小賢しく感じるんです。それをやりたいと思うこと自体、アタマの良さ自慢が目的みたいで。
歴史を扱えば外から俯瞰するしかないのが普通ですが、イヤなそれと、敬意を抱くそれと、どこが違うのかというと、目的と方向性なのかもしれません。尊敬する書き手はプロアマ問わず、客観性を慎重に扱っています。自分のアタマの良さに対して懐疑的というか、限定的に考えています(こんな話すること自体、アタマ良くない感じですけども……)。
> 暇な人間(科学研究ができる人間)が増えてきたことや、宗教的な縛りが緩くなってきて聖書からずれた発想をしやすくなったりしたのも遠因のようです。
あー、やっぱり面白そうですね。知らないながらマルクスとかルターとか浮かびます。ちょっと違う話ですが、こないだ読んだ本には、寒い地域じゃ食料調達が大変だから、出家を必要とする宗派が発展しないとか書いてありました。自然環境で宗教(考え方)が変わるってことですね。
確かに何か目的や興味があって時代の流れを読んでいるのと、時代の流れが読めているようなふりをする(カッコつける)ためだけに時代を読もうとしているのとの間には大きな差がありそうです。
外側の安全な位置で、客観的で時代が読めていて頭の良いふりをしている人間には何となく反発は覚えても、具体的な文章にするのは大変なことだと思います。「小賢しさ」と要約するのも言われてみればそうなのですが、なかなか出てきません。そのへんに魅力を感じて、ふじりさんのサイトを長い間訪問させていただいております。
簡単なことでも、自分なりの言葉で表現しようとすると大変ですからね。他人の言葉を借りるのも悪くはないけど、それだけで考えたつもりになるのは危険ですからね。
>
>
科学史とは微妙にずれますが、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄 13000年にわたる人類史の謎(上.下)』(草思社)は面白かったですね。この本は「人類がアフリカで誕生したのにアフリカは現在世界の最先端ではないのか」とか「ヨーロッパ人がアメリカ原住民を滅ぼしたのだが、どうしてその逆のこと、つまりアメリカ原住民がヨーロッパ人を滅ぼすことはなかったのか」などといったテーマに対し、広範な分野の自然科学、社会科学の知見を総合して議論したものです。内容自体もさることながら、一つの分野の知見だけで判断せずに広い分野の知識を総合的に検討することの重要さを強く認識させてくれます。
この本は科学の素養がない人でも読めると思います。曲がりなりにも専門である私が言っても説得力がありませんが、「科学について知りたいけど、専門書は敷居が高い。分かりやすい本はないものか」と言うのをテーマにした初心者向けの科学書のガイドブック(田端到・佐倉統『科学書をめぐる100の冒険』(本の雑誌社))でも紹介されていましたので、熱意があれば科学の素人の方でも読めるでしょう。興味があれば是非どうぞ。
『科学書をめぐる100の冒険』は一応科学の専門である私にとっても専門外の基礎知識を得るための本を探す貴重な資料として役立ちました。このガイドブックで素人読者代表を努めている田端到の本業は独自の血統理論で知られる競馬ライターで、実はそっちの目的で図書検索をしていたらこんなものが引っ掛かって「こんなこともしてるんだ、この人」と思ったのがきっかけです。
>
「こないだ読んだ本には、寒 い地域じゃ食料調達が大変だから、出家を必要とする宗派が発展 しないとか書いてありました。」というものも興味深い話ですね。是非出典を教えて下さい(最近の日記の中に出ていたのを見落としていたのならお許し下さい)。
長くなりついでみたいになって申し訳ありませんが、せっかくなのでもう少しだけ。
「客観性」と言う単語が出てきましたが、そもそもこの「客観性」の存在について疑念を示す人たちがいます。
一部の哲学者(カント系がそうなのかな?)の人たちですね。
彼(ら)は「そもそも完全な客観性など存在しないし、しても人類には実行不能だ。だからもっと自分の主観性を大事にするべきだ」と言うようなことを主張するわけです。中島義道なんかがこれに該当するように思います。
もちろん、意図的な確信犯的な(本来の意味でない用法が指すところの)主観性重視と、単なる客観的であるふりとでは大きな差がありますが、まあ世の中にはいろいろなことを考える人がいるものです。
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あと、最初の話題に戻って「騙される 方が悪い」ことに関して言えば、日本人が治安の悪い国にいって凶悪事件に巻き込まれた時に、現地の人から「日本人の安全意識は薄い。平和ボケしている」とか言われると事実であっても「何かそれは違うんじゃないの?」とか思ってしまいます。「自分達が治安を改善してこないのが悪い、という発想はないのか」とか思ってしまいますね。まあこれは「アタマの良いふりをしたい」とかの問題ではなく、社会背景の違いの影響の方が大きいのでしょうけど。
>
ps.私の環境ではなぜか「カラ改行」ができないので、段落ごとに[>]を入れています。見苦しくなってすいません。
○ふじりさん
>ビビらして興味を惹く。選択肢を限定する。
あ、正しくそんな違和感を覚えたんです。この文に影響??されて警告を鳴らしてる人もよくわからないです。
○Juliusさん
はじめまして。Juliusさんの文章とても興味深いです。何度も読み返えしてしまいます。「平和ボケ」って言う話も共感!!私は自分の考えを上手く文章化する能力が無いので、ふじりさんのブログは私も読むの楽しみにしております。
●Juliusさん
『銃・病原菌・鉄』は面白そうだと思いつつ量が多くて手を出してませんでした。やっぱり読むことにします。『科学書をめぐる100の冒険』も面白そうですね。こっちから読んでみます(今検索したついでにアマゾンで買っちゃいました)。
「寒いところで出家が流行らない」の出典は、内田樹 釈徹宗『いきなりはじめる浄土真宗』です。読み直してみると食料調達とは書いてなくて「暑い国でないとだめですね。寒い時期がある場所だと、所持品を最小限にした生活などできないですから。」でした。すみません、いい加減ですね。
人間に客観がありえないというのは現象学で言ってると思いますが……とか、こういう話、知識があれば膨らませるんですけどね。本の感想書くときも、もっと的確に書けるだろうし。
話がそれますが、昨日「知性には敬意を抱く」とか「尊敬する書き手」とか書きながら、「尊敬してる」って日常あんまり言わないから自分で違和感あったんですが、やっぱり実際に尊敬してるんです。昔は「あの人は学がある」って言い方があったけど、進学率上がったせいか今は言わないですね。もうちょっと素で尊敬するってのが復活してもいいんじゃないかと。徳があるとか、品がいいとかも見直してほしい。
読む力に憧れるんですよ。読める俺であればいいなあと思う。でも世の中には知識があって本当に読める人がいて、そういう人には追いつけそうにない。
で、根拠もないのに自分は読めるという前提にいきなり立って、俯瞰視座から語ってるのを見ると、「いや、読むってのはそんなしょうもないもんじゃないから」と思ってしまうんです。本当に読める人を指さして「ほら、あれを見ろよ。あれが読むってことだよ」と言いたくなる。自分も読めないのに。
近親憎悪みたいなもんです。80年代にはみんなが業界人みたいに語るのが流行ってて、自分もやってたから。
客観を語ることに反発するのはそれだけじゃなくて、「自分の意見」は主観だから通らない話で、客観を語らなきゃいけないという風潮はおかしいし、危ないからです。どこかに唯一の正解があるという前提で、お互いが自分の信じる「客観的な正解」をぶつけ合うより、始めからお互いが個人的な意見を出し合って、共通点なり妥協点なり見つける方が実際的でもあります。
「それじゃ視聴者は納得しませんよ!」というときの、視聴者って誰? 俺も入ってんの? なんであなたが俺の意見を代表してるの? みたいなこともあります。市民とか消費者とか、大きな立場でものを言い出すと変なことになる。
平和ボケについてはホントにそうですね。日本人が日本人に対して言うのはなおさら。「殴るのもアリだ」とみんなが思ってれば、そりゃ殴る人もいるでしょう。自動販売機が設置できる国であり続けてほしいです。
> 私の環境ではなぜか「カラ改行」ができないので
私も全角スペース入れてます。日本語DTPの通例からすると段落間にマージンがあるのは気持ち悪いので、こんな設定にしてしまいました。結果、めんどくさいことに。そのうち直します。コメントのプレビューもおかしいし、表示も汚いし……。パソコン、難しいなあ。
●stereo
> この文に影響??されて警告を鳴らしてる人もよくわからないです。
面白いからね。陰謀論は。まあ、実際個人情報さらしてはいるし。あと、バトンに対する違和感もあるのかも。
バトンが急速にみんなに広がっていく様が凄い興味深かった。
「ネット史」って言う言葉あるかわからないけど、そんな感じ。バトンへの文章を考えている自分が書いていて楽しかった。ネットにも流行があると思うのですが、すぐバトンは飽きてしまうだろうし、これも一つの流行で時代と共に風化して忘れさられてしまうのでしょうね。
>「尊敬してる」って日常あんまり言わないから自分で違和感>あったんですが、やっぱり実際に尊敬してるんです。
そうです。ほんとそう!
あ、そうだ。バトンを渡された時に、最後のコメントが「渡された方絶対書いてくださいね!」と付け加えられていた。それはその方が勝手につけたんだろうけど、「絶対」って何だろ
なんかネットだな。。。。とふと思った。
何度も何度もすいません。
あ、今気がついた。「絶対」という言葉がだんだん色んな人に渡っていく間に変化して、これを書かないと困った状況になると。。。。と不幸の手紙へと進化していくのかな!!まさしくホラー。
すいません。しつこくて。もうやめます。
いやならスルーしてってのはいっぱいあったけど、
「絶対」は見たことないなあ。
◎stereoさん
こちらこそ、はじめまして。私の冗長な文章を読んでいただいて感激しております。
◎ふじりさん
『いきな りはじめる浄土真宗』はちょうど一ヶ月ほど前のblogで紹介されていましたね。このサイトで何度も紹介されている内田樹氏の著作は、興味がありつつも私には微妙に敷居が高いように思えていまだに手が出せておりません…。
有機化学をやっていると大変の時間を実験に忙殺されてなかなか知識を得る時間がないものです。専門分野だけでもついていくのが大変なので、専門を少しでも離れると知識が怪しくなるのも稀ではありません。
でもいるんですよね。専門分野はもちろん、専門から離れたところの知識もあって、もちろんバリバリ実験をするという人たちが。私は身体を壊していた時期があって、その期間にいろいろな本を広く浅く読んだのですが、そんな休みの期間がなくても私なんかよりもたくさんいろいろなことを知っている人たちがいます。私はそういう「知的体力」がある人をすごく尊敬しています。でも尊敬し憧れもするけど、同じ方向に向かおうとすると身体を壊します(実際壊しました)。自分のキャパシティと相談しながら「愉しめる」方向に進んでいこうかと考えている昨今です。
「市民」とか「国民」とか、あるいはちょっと種類が違うけど「平和」とか「環境保護」とか言った単語が軽くなってしまった印象はありますね。いろいろな考え方はあるにしろ、「平和」とか「環境保護」は基本的には重要なことではあると思うんですよ。ただそれが「目的」ではなく「手段」にしてしまう人たち(私の主観ですが)が現れたことで、言葉に重みがなくなってしまいつつあるなあ、との印象はあります。
「主観」と「客観」の混同によって単語の重みがなくなってしまいつつある「国民」「市民」とはまた「軽くなる」メカニズムが異なりますが。
追加と言うか補足です。
「環境保護」や「平和」を「手段」にしちゃってもそれはそれでアリだと思うのですが、あたかもそれが「目的」であるかのように押し付けられるとちょっと反発を覚えることはありますね。
知識が欲しいと思う一方で、なきゃないでいいとも思ってますし、それぞれ分担もあるから私も楽しめる範囲でやってます。
平和も環境保護も正しいに決まってますが、正しいに決まってる前提で話されると反感を覚えるというか、「なんか怪しいぞ」と思いますね。平和・環境保護に向かう行動は全て正しいから、反論する人は地球の敵、みたいなのはカンベンです。
環境保護も学問的に見て本当に正しいことなのかどうかは難しい議論のようですね。
「地球の歴史上何度も生物種の大絶滅は起こったのだから、今回人間の手によって地球の生物種の大半が絶滅しようとも地球の歴史から見たら大したことがない」
「生態学的に種が多用であることの意義を説明するのは案外難しい」
「そもそも人間は自然の一部なのだから、人間が何をしようとそれは自然の一部と言えるのでは」
などもろもろ科学から倫理学に到るまでいろいろと議論はされているみたいです。
僕個人としては「人間という種のために環境を守りましょう」と言えば「地球のために環境を守りましょう」と言われるよりもずっと納得をするのですけど。
でも「何か周りで絶滅が起こっていて、ヤバさを感じるぞ」と言うのもありだと思います。そういう直感も大事だと思います。
直感を主張する人、科学的に客観的な解釈を試みる人、倫理学の立場からの説明を求める人が、それぞれの立場を押し付けることなくお互いの意見をきければバランスがいいのですけどね。
> 「生態学的に種が多用であることの意義を説明するのは案外難しい」
うお! そうなんですか。多用な方が安定するというのが定説だと思ってました。諸説あるんでしょうね。
地球規模までいってしまうと無常観も漂ってくるので、人間以外の生物のことを考えることも含めて「人間のため」と考えておくのが無難なのでしょう。
騙されまいとする気持ち
ちょっと前にふじりさんの読める俺なんか、騙されないことに凄い重きを置いてるみたいな感じで。騙されるヤツ=素直なバカ、騙されない俺=裏が読めるおりこうさん、ってこ…