■速水健朗『タイアップの歌謡史』読んだ。
仕掛けられた流行に大衆が乗っていく様子が、イメージとしてアタマに浮かぶんだけど、それに対する印象が、昔の話と今の話で違う。昔の話はダイナミックに感じる。最近の話はバカみたいに見える。
昔は実際、時代がダイナミック動いてたんだろう。知らない過去は美化したくなるってのもある。流行の仕掛けも受容も、好意的に受け止められる。
’80年代、広告ブームとかあって、受け手のクセに送り手側のスタンスで(あるいは、さらにその上に立って)仕掛け方自体を「あれはいいよね」とか言ったりする風潮があった。’80年に俺は高1。分かったようなこと言いたがる時期が、調度このイヤな時代に重なった。’80年代は小賢しく、全然ダイナミックじゃない。今思えば恥ずかしい。
’90年代を過ぎてもまだ、踊らされてるヤツ、踊らせようとしてるヤツは、バカにしか見えない。例えば『あるある』自体がバカみたいだし、納豆を買いに走るヤツもバカみたい。音楽のタイアップも同様。
たまたま自分がそういう世代だから、そう思うのかもなと思った。
みんなが同じ曲を楽しめて、時代の曲として共有できればいいと思うんだけど、とっくにそうはいかなくなっていて。紅白も、俺が学生の頃にはもう、親の聴く曲と自分たちの聴く曲に断絶があって。っていうか紅白自体がダサくなってて。さらに今となっては、年長者向け、若者向け、両方ともに馴染みがなくて、ほとんど全部が等価に知らない音楽で。だからかえって、たまに聴くには面白いなと思ったりで。これは不幸なことだと思っていて。
家さえ飛び出なければ、今ごろみんな揃って、おめでとうが言えたのに、どこで間違えたのか。
タイアップ自体は別にいいんだけど、踊らされるのは単純に面白くない。「俺が、この曲を気に入った」っていう主体性を主観的に維持したい。最近のタイアップは周到なクセに、その辺デリカシーがないように感じる。これも俺が年食ったからかもしれんが。
洋楽の国内盤をあんまり買いたくないのは、まず高いからだけど、背広の匂いがするからってのも大きい。日本先行発売とか、日本盤だけのボーナストラック収録とか、オビに書いてあると商売っけを感じてげんなりする。
俺は作者にお金を払いたいんであって、背広の人を儲けさせたくはない。
アニソンは露骨で、’90年代から変なポップスになってしまった。
鉄人28号のテーマには「グリコ・グリコ・グーリーコー」と思いっきりスポンサー名が歌い込まれてるが、こういうのはわかりやすくていい。そこを除けばアニメのテーマ以外の何物でもないんで。
あと、探す人・探さない人ってのもある。探さない人は、目に入る、耳に入るものの中から気に入ったものを選ぶ。テレビの影響は大きい。探す人は、自分から見付けに行く。テレビ関係なくなってくる。
探す人が偉いのかっつーと、そんなことない。何にリソース割くかはその人の勝手だから。面白い曲探すヒマがあったら、他のことすればいいとも言えるんで。
これに関しては言いたいことが山ほどあるけど、長くなるし考えもまとまってないからこの辺で。
読んでていろいろ考えちゃって、面白かった。