時事ネタ

■淫行とかメモとか話題ですけども。
 ニュースは、ほんとに言っちゃいけないことは言わないわけで。
 言う意味のないことも言わない。前提として指向性がある。
 ウケの良さとか、世論とか、欽ちゃんとか首相とかの力関係とか、記者なり会社なりの方向性とか、もろもろの要素の絡みから、何をどこまでどのように言うか決める。
 こっちは、その要素全部を知ることができない。その要素からどんな計算をしたのかも全部は理解できない。その件の当事者じゃないし、報道する側でもないから。
 調べればわかることもあるが、最後までわかんない部分もある、かもしれない。そこについては「あるかもね」と思っとくしかない。それ以上のことを言っても想像にしかならなくて、あんまり意味がない。
 メモは待たれてた。だから見つかった。「ありそうなこと」だった。きっかけさえあれば議論の始まる下地ができてた。そういう力関係だった。極論すれば、メモは本物でも偽物でもかまわない。
 宮崎勤がオタクらしいオタクだったのか、ろくに検証しないまま、あの事件はオタクの事件として語られた(俺も語った)。あの事件を「待たれてた」と言うのは不謹慎だが、現に俺らはあの事件をネタに、事件とは関係ないかもしれない話をしていた。話したかった話をしていた。
 「オウムについて考えなければならないことが残っている」とか言うのも、本当はオウムの話じゃないかもしれない。「オウムを媒介にして、言えること、言っといた方がいいことがまだ残ってんじゃないの?」ということで。(話は逸れるが「9.11以降」って言葉を気軽に使う人は、なんか欠けてんじゃないかと思う。)
 きっかけを待ってる議論は、いずれ話さなきゃいけないことかもしれない。「本当はどうだったのか?」はそれはそれで大事だけど、本当のことは最後までわからないかもしれないし、それでもしなきゃいけない話もある。
 「報道の仕方がおかしいんじゃないの?」は中立。メモが本物か偽物かで自分が得するかどうかは取りあえず関係ない。
 でも、メモが偽物だった方が得だと思ってる人による新聞社叩きは、新聞社の誘導の上にある。同じ土俵に上がってるというか。それはそれで話すべきことかもしれないが。
 なんにしても、事実とは関係なく話が進んでって、それでいい場合もあるかもっていうか、それこそが事実になったりすることもあるってことで。バイアスはメディアだけじゃなくこっちにもあるし、お茶の間に座ってて全部が理解できるわけないんで。

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