■ブックオフでシルビア・テレス『Amor em Hi-Fi』とデティ・クルニア『Dari Sunda』購入。シルビア・テレスはジャケではSilvia、レーベルとCDDBではSylviaになってる。なんだこれ。英語表記とポル語表記か? ボサノバ以前のシンガーだそうで、なるほどジャズボーカルっぽい。18歳の頃ジョアン・ジルベルトと付き合ってたそうな。風紀が乱れておるな。内容よりとにかくジャケの太腿。
■digi+KISHIN ソニンの本の方も早くも売りに出てたので回収。DVD観て「これなら本の方がいいや」と思ったんだが、本は本でもの足りなさがある。パブが載った雑誌買ってれば、本買わなくてもいいんじゃないか。なんだろうな、このファンの期待拒絶っぷりは。
プロダクトには不満があるが、ソニン自体は素晴らしい。スリムなモデル体型ではなく、グラビアアイドルの豊満体型からもズレて、ソニンはソニンとしか言い様がない体型を獲得した。がっちり好きの俺としても好みの範囲外ではあるが、これがソニンなんだから受け入れるしかない。ズレにこそ魅力があるソニンなんだから。いやもう、メイド服なんかかわいくてしょうがないよ。
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去年より面倒くさがりになってるぞ
■宇多田さんの新曲が素晴らしすぎる。アルバム出たらCD買おうと思ってたが、ついカッとなって昨日iTMSで買ってしまって聴いて泣いた。そんで今日も聴いて泣いた。っていうか弱ってます。心身共に弱ってます。まー言うたら「応援ソング」なのだが宇多田さんの場合は無根拠に励ましてはくれず「ちゃんとやってるよな? ああ?」みたいな怖いとこがあるのでそんで泣いた。歌詞を置いといてもノリっていうか刻み方っていうかと音像が素敵だなと思った。とか言いながらauのCMでは「このイイカンジの歌は誰の?」とか思っててしばらく宇多田さんだとは気付かなかった。関係ないけどあるけどneonを買うかいっそ携帯やめてPHSだけにするか迷ってる。買うなら青だなーと思っててそしたらニンテンDS Liteも青かなーと思ってて、青のモックをいじったがちょっと意外な安っぽさでむしろ良かった。neon買わないならマカなので白。
食人習慣
古本屋で買ったユリイカ’98年6月号に載ってた、カエターノ・ヴェローゾ『食人習慣』から部分引用。
僕にとってはとりわけ、オズヴァルドの一連の「マニフェスト」のショックが強かった。二四年の『パウ・ブラジル的詩作のマニフェスト』、そして特に二八年の『食人習慣的マニフェスト』である。この驚異的な美しさを誇る二つのテキストは、今日的であると同時にヨーロッパ的前衛主義からの開放だった。ヨーロッパで生まれた各種マニフェスト同様、これらもマリネッティの未来主義の申し子であり、特に前者はシュルリアリズムに先立って生まれている。また、この二つは、ブラジルの再発見であると同時に、新たなブラジルの創設でもあった。(略)
二番目のマニフェスト『食人習慣的マニフェスト』は、食いつくすことの隠喩を展開し、明示している。我々ブラジル人は、どこからくるなんであれ、真似をするのではなく、食い尽くさねばならない、あるいはアロルド・ヂ・カンポスの言葉を借りるなら、「ブラジル種の元で外来の経験を吸収し、これに、最終生成物が独自の性質を持つよう、そしてとりわけ、海外との接触において輸出用産品として機能する可能性を持つよう、疑いのない地域的特徴を加味しつつ、我々の流儀でこれを再発明」せねばならない。オズヴァルドは、使い古された形式、方程式を持つ不滅の輸入行為という(しかも、作者の側の想像力というよりは、過去の事例と未来への助言の出来の悪い集大成に見えていた)図式をひっくり返したのだ。そして、食人習慣という神話を提議し、国際的な文化関係に人食いの儀式を持ち込んだのである。インヂオがペーロ・フェルナンデス・サルヂーニャ神父をむさぼっている場面こそが、ブラジル文化、ひいては我々の国民性の基礎たる最初の場面となるのだ。
文化的食人習慣の思想は、トロピカリスタにぴったりと適合した。僕らはビートルズやジミ・ヘンドリックスを「食らっていた」からだ。
しかし、トロピカーリアの中にも(そして食人習慣の中でも)ブラジルを観光客にとってもブラジル人にとってもエキゾチックにしてしまおうとする傾向があると見るのは妥当なことだ。疑いなく、ぼく自身も今日まで、この熱帯のカソリックの化け物が持つ奇妙な特徴を中和しようとする、平凡な国際的尊敬とやらを模索する名目で行われる滑稽な試みと思えるものは撃退してきている。無論、バナナを吊したターバンの連想が、ブラジル生まれの核物理学者や古典文学者の頭にとって、特に有益でないことくらいは僕にもわかる。ただ、僕が知っているのは、この「ブラジル」という事実が上記のような学問の研究者(あるいは新しい学問の発明者)を大勢輩出するような創造的エネルギーを発するとしたら、それは、この「ブラジル」が自身を前に臆病がらない場合だけであり、国際秩序に対し、可能な限り分別を働かせて従うことの落胆の上に、自己愛的喜びを位置させられる場合だけだと言うことだ。『オルフェウ・ド・カルナヴァル(黒いオルフェ)』が初公開されたとき、僕は十八歳だった。僕はこの映画をバイーアのバイシャ・ドス・サパテイロス(!)のシネ・ツピー(!)で見た。僕を含めて客席中が笑い、あのフランス人監督に、かくも魅力的なエキゾチシズムの産物を作り出させた厚かましい不正当性を恥ずかしく思った。我々ブラジル人がこの作品について下した批評は、「いったいなぜ、ブラジルを代表するもっとも純粋な音楽家たちは、このようなまやかしを装飾する(そして、これに威厳を添える)ために作品を提供することを承諾したのだろうか?」に要約される。この映画の元となった戯曲の作者であるヴィニシウス・ヂ・モライスが、ロードショー前に制作者が行った試写会の際、腹を立てて試写室を出ていったというのは、世に知られた事実だ。とはいえ、その魅力は外国人においては機能した。映画は(実にさまざまな文化レベルの人々にとって)ギリシャ神話のモダンで大衆的なお涙頂戴バージョンと映っただけでなく、この物語の背景となった極楽のような国を紹介するものだったのである。トロピカリズモが起こったとき、この作品はブラジルではすでに忘れ去られていた。しかし、六九年、僕らがロンドンへ着いてみると、レコード会社の役員たち、ヒッピー、インテリなど、知り合ったすべての人々が、一人の例外もなく、僕らがブラジル人だと知るやいなや、『黒いオルフェ』について熱狂的に語り出した。僕らはまだ、若干の恥ずかしさを覚えていたが、「カルナヴァルの朝」を歌ってくれというリクエストに応えるのは、多くの場合報われることだった。外国人(ロックのシンガー、第一線の小説家、フランス人社会学者、新人女優)によるブラジル発見物語のナラティヴは、今日に至っても絶えることがなく、そのどれもが忘れ得ぬマルセル・カミュの映画によって彩られているのである。エリザベス・ビショップは、リオから出した手紙の中で、最初は——恐らく詩人であり、ブラジルに長く住んでいたからであろうが——アメリカ人の友人たち(ロバート・ロウェルを含む)に向かって、あの映画は音楽は素晴らしいが、内容は彼らが思っているのとは逆にくだらないと言って説得しようとしていたが、じきに、その評価においてブラジル人とは距離を置きはじめ、映画の曲は「純粋な」リオのファヴェーラの音楽とは違うからという理由で評価しなくなった。ジョン・アップダイクは、部分的にはこの『オルフェ』に触発され、『ブラジル』と題された著書を書いたが、これはカミュの映画と大して変わるものではなかった。映画が封切られた時期に、この作品、詩、オルフェの神話とリオデジャネイロの町について、なにからなにまで正当な評論を書いたのは、唯一ジャン=リュック・ゴダールだけだった。トロピカリストにとってこの評論は、まさに自ら署名したいと望めるものだ。だが、これが書かれていたことを僕が知ったのは、七〇年代に入ってから、バイーアに戻った時だった。その間に、この映画についてなされたトリピカリズモ的批評は、とりわけ、外国人のブラジルに対する見方について、そしてエキゾチシズムを伴う愛と戦争の繊細さについての考察が深められたと指摘していた。
ややこしい文章だなあ。インテリだな。熱いな。
日本人だからエキゾチックなものとしてしか『オルフェ』は見れないけども、とても「極楽のよう」に見えなかったけどな。単に「うわー、貧乏だなー」と思った。一方’99年のリメイクはPVみたいで、それこそ「極楽のよう」に見えた。で、音楽はカエターノ。これはどうなんだ。ブラジル映画だからいいのかな。
みんな、うちじゅう、なんでも
■NHKでやってた『沖縄“笑いの巨人”伝 〜照屋林助が歩んだ戦後〜』見た。世相を折り込んだコミックソング歌うのなんか、吟遊詩人っぽい。そのうちCD買ってみよう。
ブラジル音楽も「伝統に根ざした大衆芸能」という中村とうようげなとこに惹かれてるんだけども、それはナショナリズムの産物で、もともと帰属意識が薄い俺にとっては違和感もある。
さらに日本の大衆芸能だと左翼っぽいというか、いや、戦後民主教育の申し子だから左にアレルギーはないんだけども、市民くさいというか、NHK向きというか、なんだろうな。例えばMPBに対して「午後のティータイム、ぼけーっとするのにいい」とかいうステレオタイプを、当の地方の人自身が演じてるような妙さが。
若者は自意識過剰なので、自分が若者であったときにはアーチストの自意識過剰に同調できたけども、年食ってくると鬱陶しいから「みんなのうた」に興味出てきたものの、自分を「市民」と位置付けるのはどうもなあ、みたいな。って言うかわざわざ東京出てきといてワールドミュージック好きってどういうの?みたいな。
そんで、ナショナリズムったって、「俺のナショナルってなによ?」みたいな。ブラジル人でも沖縄人でもないし、伝統から切れてるし、アメリカ文化に憧れた世代でもないし。テクノポリス・トキオなのか? あ、俺、関西人だ。じゃあネチズン? 一日中モニターの前にいてアンテナリロードしてるしな。
まー自分の出自なんて、わざわざ探すもんじゃないけど。自分の資産について考えてみたりして。グラフィック方面じゃ、やっぱり「侘び・寂・萌え」みたいのはしっくりくるんだけど、もうオタでもないしなあ。確かに電子音を聴きながら、アニメ見て育って、それしかないんだけども、そういうのは世代論みたいでつまらんし。
ポルトガル語漬け
■秋山奈々らしき人を見かけた。顔はごく短時間しか見えなかったけど、たぶんそうだと思う。少なくともルックスと服装と一瞬聞こえた話の内容からしてモデルかタレントであることは確か。北陽の伊藤でもなかった。美少女というより美女だった。もうちょっと人が少なければ、しっかり見れたのに。
■昨日書いたのは、昔/今と、ブラジル/日本がごちゃごちゃで何言ってんのかわからんな。
ブラジルのことで言うと、こないだ買ったカルトーラは’74年の録音で、このとき65歳だそうな。これがファースト(とセカンドのカップリング)なんだが、かといって「苦節何十年、ようやくレコード出せました」的な超遅咲きではないらしい。二十歳のときにマンゲイラを創立している。サンバの巨人であることに、レコードが出てるかどうかは関係ないらしい。こういうの、日本じゃ考えにくい。
(マンゲイラは史上2番目にできた、現存する最古のエスコーラ・ジ・サンバ。エスコーラは学校の意味で「サンバ学校」と訳されるけど、意味合い的には「チーム」で、生活共同体だったりもするらしい)
中原仁『ブラジリアン・ミュージック』(持ってるのは’95年版)に載ってた、ノルデスチ(北東部)の民衆詩人の話もなんか凄い。
北東部の民衆詩人(ポエタ・ポプラール)は、その表現の仕方において大きく「吟遊詩人」と「詩人」に分けられる。詩を用いて物語を綴るのが「詩人」であるのに対し、吟遊詩人は「歌い手(カンタドール)」とも呼ばれるとおり、自作の詩や他の詩人が作った詩を歌いながらセルタォン地方の旅を続ける遍歴者だ。彼らはいつも、旅先で仕入れた最新の情報を持ってやってくる。そして見たこと、聞いたこと、体験したこと、感じたことをテーマに「物語」を創り、歌って歩く。世相を反映した詩を人々に歌って聞かせるという、まさに「歩くシンギング・ニュースペーパー」のような存在だ。
(略)
民衆詩人の詩作は、口述によって人々に紹介される一方、小冊子に印刷され販売されている。この小冊子を「フォリェット」と言う。一般的には新聞紙に印刷されていて、ページ数は4の倍数。内容がニュースの場合はページ数が少なく、架空の話の場合は16ページから64ページまである。表紙やイラストには、作者自ら描いた木版画が用いられることが多い。これらの小冊子による文学を総称して「リテラトゥーラ・ヂ・コルデル(紐の文学)」と呼ぶ。これはイベリア半島から伝わってきた呼び名で、小冊子が紐でつるされて売られていたことが起源である。もっともブラジルでは一般的に、地面に新聞紙を敷いてその上に並べるか、ふたを開けたトランクの中に入れて売られている。“手入れ”があった時のことを考え、素早く店をたたんで逃げるのに便利だからだ。
(略)
実際、フォリェットはこの百年ほどの間に、北東部の民衆に最も広く読まれている印刷物だ。学術的な出版物の発行部数が国内で約2000部ぐらいなのに対し、フォリェットは1万から2万部発行されている。ベストセラーは10万部以上になる。フォリェットは多くのブラジル人の嗜好や情緒を養い、そのような人々を通じて民衆文学そのものも養われていく。マスメディアを媒介としない広がり方はいたって明確なもので、内容の良いものほど大勢に読まれ、自然発生的に口コミで情報が広まっていく。
なにこの同人マーケット。いつの時代の話ですか?って感じだが、今もこうらしい。
みんなのうた
■立ち読みした週刊アスキーに、コーネリアスのヤン富田ミックスがiTMSで限定販売とか書いてあった。あった。買った。iTMSで特に宣伝されてないし、検索しても盛り上がってる様子はないが、ほんとに限定なのかな。どっちでもいいんだけど。
■中古で『コマソン黄金時代 懐かしのTV-CM大全集(1962〜1973)』ってCD買った。『見えすぎちゃって困るのオ〜』が入ってる。植木等の「なんであるアイデアル」とか巨泉の「はっぱふみふみ」とかセリフだし。コマソンじゃないし。5秒とかだし。
今も売ってるのかアマゾンで検索したら、中古が1万円とかだった。これ。俺は1200円で買ったよ。アマゾンの中古は強気なのが多いから、これが相場かどうかは知らんが。
■ボサノバは同じ曲をいろんな人がやってる(この時代はほかのジャンルもそうだけど。スタンダード・ナンバーがある)。作曲家は先生で、歌手はスターで、今の「アーチスト」よりも一般人との格の差は大きかったんじゃないかと思うが、名曲は共有財産みたいな感じもあるように思う。サンバは共同体の音楽みたいだし、最近のMPBでも古い曲のカバーがあったりする。みんなで楽しむ分には、必ずしも新曲でなくていい。
一方、今は、っていうか俺が自分が楽器できなくて、歌も音痴だからそう思うだけかもしれんが、身近に音楽がない感じがする。古い映画見ると、意外なとこで意外なかたちで歌が出てくる。意外に思うのは、みんながいる場で歌うことがなくなってるから。
今は「音楽=CDを出すか買うか」みたいな。「みんなのうた」じゃなくて「俺の歌」。俺の主張を聞け、俺の世界を知れ、みたいな。それか逆にマーケティングもりもりみたいな。カラオケとクラブはあるけど、フィジカルな発散の意味が強い気がする。軍歌とか闘争歌とかとはだいぶ違う。そこいらで踊る習慣もない。かろうじて盆踊りとか祭があるくらい。こんなふうに想像上の昔を今よりいいものとして対置するのは、ありがちでヤバいけども。
ブラジル音楽に首突っ込んじゃったから、どうせなら「ちょっと詳しい」くらいまで行こうと思って、さらにCD買ったり本読んだりしてるんだけども、ポルトガル語がわからないのが大きな壁で。英語だってわからんが、そこそこ聞き慣れてはいる。ポル語は曲名の意味がわからん以前に読めない。発音できない。仮に多少わかるようになったところで、ブラジルの歌はよその共同体の歌であって、俺らの歌じゃない。
で、俺らの歌ってなんかあるかと考えると、アニソンとかしかないんじゃないか。好きな曲ならいくつも挙げられるが、好きな歌となると、細野さんのファーストと一時期のムーンライダーズくらいしか浮かばない。ものごころ付いた頃には歌謡曲も微妙なことになってたし。とか思って、CM集もわりと真面目に買ったんだけども……。
そんなこんなで大工哲弘はやっぱいいなと思ったりした。
YouTubeのMPB
・Sinatra and Jobim
フランク・シナトラとジョビン。間奏で一服するのがダンディー。
・Astrud Gilberto – The Girl From Ipanema [1964]
お馴染み『イパネマの娘』。出だしがおもろい(だけ)。
・Águas de Março
ジョビン、シコ・ブアルキ、カエターノで『三月の水』。
・Os Mutantes & Gilberto Gil
こんな大編成なのか。ジルベルト・ジルかっこいい。ムタンチスはルックスが幸せそうだな。特に髪型。
・Chico Science & Nacao Zumbi – Maracatu Atomico
シコ・サイエンス&ナサォン・ズンビ。土方巽が一枚噛んでるような……。
・Daniela Mercury no polêmico vídeo da camisinha
ダニエラ・メルクリ。コンドームを付けよう? こんなのあった。元記事が見れないが、避妊の是非で揉めてたんだろうか。
・just a little birthday video for marina
セウ・ジョルジの検索で出てきた。セウ・ジョルジは役者でもあり、映画『シティ・オブ・ゴッド』の「色男・マネ」。ブラジル風ファンク、ファンキの人。最新作はなぜかデビッド・ボウィのカバー集。
・A Sua – Marisa Monte (live)
マリーザ・モンチ。照明がきれい。
・Morelenbaum2 Sakamoto – CORACAO VAGABUNDO (Live)
ジャキス・モレレンバウム+パウラ・モレレンバウム+坂本龍一のユニット。モレレン2は複数上がってた。
・Arto Lindsay + Peter Scherer – It’s Gonna Rain (Live at NYC)
MPBじゃないがモレレン2と同じ方がアップしてたアンビシャス・ラバーズ。