磯部潮『発達障害かもしれない』

発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子磯部潮『発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子』読んだ。高機能自閉症、アスペルガー症候群に関する理解を促す本。メインターゲットは子どもに関わる親や教師なんだろう。
 高機能自閉症というのは、普通に暮らせるけど自閉症っぽい傾向がある人だと思ってた。この本によれば、自閉症なのに高機能なせいでそう見られず、誤解を受けやすい人らしい。言い方・視点の違いっぽくもあるが、根本的に全然違うんだろう。高機能自閉症は、高機能だが、あくまで自閉症、とうことらしい。
 自閉症の概念が広まったのが’60年代後半というのは意外だった。俺は’65年生まれなんだけど、自閉症の同級生がいた。幼稚園から中学まで一緒で、自閉症はある意味身近だったから、もっと昔からある概念だと思ってた。彼の両親はしばらくの間、自分の子どもが何でああなのかわかんなかったのかもしれない。
 電車に乗るとよくそいつに会った。ずっと乗ってるらしい。挨拶すると「おう!」とか返事が返ってくるけど、それだけで話はできない。自閉症は手順にこだわるらしいから、決まった時間に決まったルートを走る鉄道は魅力的なのかもしれん。と、理屈では思うけど、なんでそこまで惹かれるか謎。鉄っちゃんって変な人多いよなあ。
 著者の意図するところとズレてんだろうけど、自分に似たとこ、自分と違うとことか、いろいろ興味深かった。なんかうまく行ってないと思う人には、かなり面白い本だと思う。
 自閉症だと感情移入ができないらしい。抽象化もできないらしい。視聴覚で選択的にものを捉えることもできない。カクテルパーティー効果やパターン認識がうまく働かないらしい。

 頭の中は映像の洪水
 しかし高機能自閉症やアスペルガー症候群の人たちは、自閉症患者と同様、視覚領域においては一般人より優位性が発揮されることがしばしばあります。
 前述したように、私たちは物事や出来事の不必要な部分を意識することなく切り取り、必要なものだけを記憶する選択的注意という能力を持っています。しかし彼らは、無意識レベルで切り取ることなく、物事を記憶します。普通私たちは注目しているものに焦点を合わせて、それ以外のものは意識することはないのですが、彼らは写真のように全体の映像を切り取るのです。(p.73)

 

 こういう症状はどのように説明すればよいのでしょうか。
 私は、これはデジタルカメラのファインダーで世界を切り取ったようなものではないかと考えています。
 見るもの、感じるものを一瞬一瞬、場面場面で切り取るため、自分の内的世界に残像はあるものの、全体的に捉えたり、抽象化したり、他社と体験を共有することができなくなるのではないでしょうか。
 これは先ほどの「五感の過敏性」にもつながっています。つまり、ファインダーで切り取ったファイルをハードディスクに次々と入力し続けているため、容量がすぐにいっぱいになってしまうわけです。
 ただし、抽象化や全体化という修飾を受けていない分、ファイル自体の鮮明度は、おそらく極めて高いのではないでしょうか。自閉症の子どもが驚異的な記憶力を発揮するのは、このためではないかと思います。
 この能力も、生活する上で計り知れない不都合があると思います。他者と体験を共有できなければ人付き合いができないでしょうし、抽象化や全体化ができなければ他者とコミュニケートすることもままならないでしょう。しかし、この能力は、私たちに新たな発見をもたらす可能性もあるはずです。先入観を排して物事を見るということは、私たちにはありえないことですが、彼らにはそれが可能なのです。
 世には知られていないだけで、世紀の大発見をした人物の中に、おそらく多くの高機能自閉症やアスペルガー症候群の人がいたと私は考えています。その証拠に、偉人伝には変人やまるで協調性のない人、おそろしく自分勝手な人が数多く登場します。具体的には先のアインシュタイン博士や、発明王として知られるトーマス・エジソンもアスペルガー症候群だったろうと考えられています。日本では、坂本竜馬や織田信長がそうだったのではないかと言われています。
 
 私たちの視点は普遍的なものか
 先に述べたように、自閉症児の視点は私たちとは異なります。では、私たちの視点は普遍的といえるのでしょうか。あるいは、物事の本質を見抜いているといえるのでしょうか。ひょっとしたら、私たちの視点は、単に生活をしやすくするため、言い換えれば、生存しやすくするために手に入れた特性かもしれません。
 本来、自閉症の人が持つ「五感の過敏性」と「状況への認知の歪み」こそ、本来人類が本能として持っていたものであり、私たち人類は生存を容易くするために、進化の過程で「選択的注意」を獲得したのではないでしょうか。
 たしかに私たちは選択的注意のおかげで格段に生活しやすくなり、生存し子孫を残すことに成功したのかもしれません。けれども、ある程度安全が保証された現代において、選択的注意は必ずしも完璧である必要はないのではないでしょうか。だからこそ、選択的注意が不完全な自閉症が生まれたのかもしれないのです。
 私たち一般人の視点は、あくまで進化の過程で備わったものであり、普遍的なものではありません。自閉症児の物事のとらえ方や視点の中にこそ、人類が選択的注意を獲得する以前の、人間としての本能や普遍的な視点が隠されているのではないかと思うのです。
 なぜ私がこんなことを考えるのかというと、自閉症児の視点は、常に一定の自らの快感原則に従っているように見えるからです。しかもその視点は、自分を中心にして三六〇度、物事を均等に平等に先入観なく取り入れているように思えます。(p.31)

 認知に関する知識がないんだけど、これは変じゃないかなあ。センサーの入力をそのまま受け入れる高等生物なんていないんじゃないか。人間のそれとは違うかもしれないけど、どんな生き物でも不必要な情報は捨ててるはず。選択的注意をしないのが「本来」なんてことはないだろう。それはやっぱりエラーだと思う。
 でも、次の段階、言わばニュータイプとしての選択的注意の放棄ってのは、お話としては面白い。

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