エロいものに飽きてきた。人一倍好きだったけど、もうたいがいのパターンは見た。供給されすぎだし、積極的に摂取もしすぎた。枯れていい年でもある。
俺からエロいものを取るとあとなにが残るんだって感じなので戸惑いのようなものを感じる。
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身近なオカルト
パズル&ドラゴンズにはスキルレベルというものがあって、同じスキルを持つモンスター同士を合成すると、一定の確率でスキルレベルが上がる。スキルレベルを5上げるのに50体使ったとか見かけるから、上がる確率は1/10くらいかもしれない。
今100万ダウンロード記念で、スキルレベルが重要な、ドロップ変換キャラが手に入るダンジョンを連日やってる。しかもスキルレベルアップ確率2倍キャンペーン中。こんな機会はなかなかない。今がんばればこのあとかなり楽になる。夏を制したものが受験に勝つというか、皇国の興廃この一戦にありな感じで。みんな地道に数を集めては共食いさせて合成し、スキルレベルが上がった上がらないで一喜一憂している。
上がるか上がらないかは確率の問題。1体合成ごとに、規定の確立が適用される。めちゃめちゃ運がよければ5体でマックスになるし、悪ければ50体でも終わらないかもしれない。
なのだが、2ちゃん見てると妙な方法論がいろいろ出てくる。ほかのキャラと一緒に合成するといいとか、何体ずつ合成するのが上がりやすいかとか、上がりやすさに個体差があるとか。
ジンクスめいた話はスキルレベル以外のところでも出てくる。ジンクス止まりならいいが、マジな人もいて(それをバカにする人もいるんだけど)。iPhoneなんてハイテク機器でデジタルなゲームやってんのに、迷信を信じやすい素朴な人みたいになってる。
健康関連とか、すべてが明らかになってないとこではオカルトが発生しやすいけど、ゲームでもこれだからヒトって簡単だなと思った。自分でコントロールできないことに対し、自分は解法が見つけられると思いがち。
自己啓発もその類だと思う。簡単に理解できるもんじゃない自分を、「コントロールできるんだ」って思い込んで、無理やりコントロールしようとするわけで。そうすると合理主義の自己啓発がオカルトに近いことになるのがおもしろいような、そうでもないような。
パズドラに戻って、「絞られた」というのもある。最初はモンスターがよくドロップしたけど、今はなかなか落ちない。ドロップ率を下げられたと。
これは運営側がやればできることで、実際前に1度、最初だけやたら落ちたことがあった。このときは最初の設定が甘すぎたと考えた運営が、「調整」したんだと思っている。けど、それ以外にもドロップ率を途中で変えているのか、本当のところはわからない。
とは言え、たいがいは、これまた単に確率の問題っぽい。ある人が「絞られた」って言ってるときに、他の人が調子いいと言ってたりする。
こっちはオカルトじゃなくて陰謀論。あ、陰謀論もオカルトか。
京都の記憶とか
昨日のトトロで思い出したが、小さいころ里子に出されていた京都の家には土間があった。玄関の引き戸を開けたら土間で、右側が台所、左側に居間と寝室。寝室には大きな柱時計があって、寝るとき音が気になった。
風呂は縁側の端にあった。半分外というか、簡単な屋根的なものはあるけどほぼ外だった。トイレは当然外。夜行ってデカいクモとかいると怖かった。
離れに2〜3部屋あって、正月は庭で餅つきやってたから結構広かったはず。
預けられてたのは幼稚園に入る前で、そのころの記憶はまったくない。家に戻ってから何度か遊びに行ったときの記憶。「京都のパパとママ」と呼んでた。
近所のお好み焼き屋がサービスしてくれて、いくらでも肉を食えというんで、喜んでばくばく食べたら気持ち悪くなって吐いてしまって、それ以来二十歳前まで肉が食えず、給食で苦労した。バカみたい。
あと近所にバナナ屋があった。普通の民家でバナナだけ売ってた。玄関開けると靴箱かなんかの上にバナナが並べてある。
共働きで面倒が見られないから里子に出されていたそうだが、当時の家が岸和田で、血縁もない京都の家に預けられてたのがよくわからない。
母方の爺さんが亡くなる前、病院に見舞いに行くと、ボケていて俺が誰かわからなかった。叔母が説明すると思い出し、「ああ京都の……」と言った。これに対し「いらんことばっかり覚えてるんだから」と叔母。なんか「いらんこと」らしい。
可能性としては里子ではなく養子に出されたが、やっぱり戻したというのが考えられる。けど京都の家は男ばっかり3人いて、今さら年の離れた子をもらうことはないだろう。
実はそこんちの子で、今の家に養子に出されたというのは、叔父に似ているとか、母方の血縁に関する話が出ることがあるのでなさそう。父方は……。
そういうおもしろい話じゃなく、どっちかの移動のとき俺がたいそうグズったとかかもしれない。事情はともかく、なんかしら性格形成に影響してるんだろう。
禁止することを禁止する
タイトルはカエターノの曲名。
デモに対して「あんなの意味がない」って言いたがる人のモチベーションは何に由来するんだろう。意味がないと思うなら、自分が意味があると思う別のことをやればいいだけのことだ。
彼はそれをやっている。「もし私が彼なら」みたいに、彼の立場で誰かがなにか言ってもしょうがない。彼は彼であなたじゃないから。立場も考えも違い、彼に関する情報を、あなたは彼自身より持っていない。
製品やら作品やらの送り手は、アンケートに懸賞を付けてまでお客さんの意見を聞こうとする。送り手は受け手じゃないから、受け手の気持ちがわからない。それを知りたい。
これに対し、「あなたの製品/作品はこうあるべきだ」と作り手の立場から意見してもしょうがない。有用なのは、どうすればいいか客観的な意見ではなく、受け手ひとりひとりの個人的な感想だ。作るノウハウを持っているのは送り手で、客じゃない。素人の意見を聞いても仕方がない。第三者の冷静な意見が聞きたければ、その方面のプロに頼む。人に方針を示せる力があるなら、ご自分の職場で発揮してくださいということになる。
言ってもしょうがないのに言いたいこともある。俺は昔のオリンパスが好きだから、今のオリンパスに意見したくなってしまう。一方、フジテレビが変なことしてても何も思わない。もともと何の期待も関心もない。
デモに意味がないと言わずに済まない人には、何かしら愛憎があるはず。ケンカはレベルが近い者のあいだで起きる。一体どんな感情で自分を重ねてるんだろう。
単純に、関心がない人にとっては迷惑というのはある。道がふさがったり、うるさかったり。雰囲気が厭ってのもあるだろう。
「関心がない人にとっては」なんて付いてしまうのがむかつくのかもしれない。左右問わず、正しいことをやってるんだから認めろ、みたいになりがちで、それは大変うざったい。
意味がないことをしてるくせに「とても有意義なことをしている私」をデモンストレーションされることがカンに障る、が一番大きいのかな。そういう人が何割いるか知らないけど。この場合、「客観的に考えて」「意味がある/ない」の戦いになる。客観なんてあやふやなものは置いといて、それぞれが主観を主張すればいいのに。
即座に政策変える力があるかという点では、現状デモに意味はないと思う。
意思表示なら、意味があるとかないとかじゃなくなる。アメリカ政府がムチャやってるときに、アメリカで反対するデモやってたら、日本でちょっと安心したりもする。
いろんな方面で、誰かがやってることに対して、それをするべきじゃないと言って足を引っ張る人がいる。有名人のブログとかツイッターに対して、あなたの立場でそれを言うべきじゃないとか。結果、当たり障りのないことしか言えなくなる。ポカやらかして叩ける日が来るのを待ってる人もいる。何もしなければ怪我しない状況作って、得するかな。
気持ちを収める
「このままじゃ気持ちが収まらない」とかテレビでよく出てくるけど、おおやけに言っていいことなのかなと思う。収まろうと収まるまいと物理的にはなにも変わらない。それに気持ちは個人的なもので、場合によってはつまらないプライドに関わってたり、エゴに近いこともある。
車に轢かれたとする。起きてしまったものは、起きる前には戻らない。できるのは今後のためのこと。車に欠陥があるとか、道が危ないとかなら、それを改善しなきゃいけない。飲酒運転だったら二度とするなと。あと補償。お金で済まない状態になろうと、お金でしかどうしようもない。
かと言って、運転手に落ち度があった場合、鼻ほじりながら金だけぽんと渡されても、気持ちが収まらない。
反省していれば謝罪も出てくるはずで、反省しなければ今後のためにならない。反省させることには実際的な意味がある。けど、気持ちが収まらないのはそれが理由じゃなく、おおやけの正義より、個人的な勝ち負けの問題に思える。
気持ちを収めたがるのが仮にエゴだとしても、轢かれた当人や親しい人が謝罪を求めるのは、まあ無理がない気がする。理不尽な事態に筋を通したいのかもしれない。
謝罪会見で頭下げてフラッシュぱしゃぱしゃ浴びてるとこテレビで見るのは、なんのこっちゃわからない。世間に対する謝罪だろうから、見てるこっちは世間様なのだろう。まず腹立つネタを楽しんだあと、頭下げさせたのを見て、鼻ほじりながら「ざまあ」とか言って気持ちを収めるエンターテイメントは大変に下品だった。おおやけの報道なりは、気持ちの問題をもうちょっと引っ込めて、実利的な問題に突っ込んだほうがいいと思うし、見てるこっちも気持ちを引っ込めたほうがいいと思う。気持ちの問題は、合理的じゃないことも多いし。
オカルト
去年ピンドラに「運命」とか出てきて、シュタゲはSFだから情緒的なことは言わないけど因果とか出てきて、前々から考えてたことを思い出して書こうとしたが、過去ログ見たら前々から書いてたので自分の文章を引用する。
俺らは自分で思ってるほど科学的・客観的にものを考えてなくて、オカルトがかった世界に生きてるんじゃないか。
例えば「かけがえのない想い出の品」には、物理的な根拠がない。持ち主のストーリーが、物にかけがえのなさを付加してる。けども「かけがえのない想い出の品」って概念は一般的に通るから、その価値は一般に実在してる。
「ストーリー(お話)=オカルト」みたいな感じ。当然「オカルトだからダメ」ってことじゃなく、お話が通じるところでは、お話の中のものは現にあるということで。で、うまく繋げて言えないんだけど、シャーレの中に簡単な生物を入れて、片っぽに光を当てると、光を好む生物ならそっちに集まって、嫌う生物なら逆側に集まる。さらにエサを加える、別の生物も加える、とか状況をややこしくしていくと、結果もややこしくなっていく。
俺らはあらかじめややこしい事態の中にいるんだけど、個別の指向性だけ取り出せば、やっぱり光に集まるとか、電車にミニスカートの女子がいれば向かいに座るとか、シンプルな原因と結果に、想像的には還元できる。
そういう個別の反応が複雑な条件で積み重なった結果が「今」。
「偶然はない、すべては必然」みたいな言い方がある。そう言えば言えるが、要素が複雑すぎて因果関係は追いきれないはずだから「偶然」って言っちゃった方が適切でもある。
いろんなことが起きた中で、何が重大で何が取るに足らないかは人が決める。現在の結果から振り返って、過去に意味づけする。追い切れない無意味な因果関係を、わかりやすくて意味のある流れに置き換える。そうやって人生とか、運命とか、歴史とかは、今を起点にストーリー化される。
意味を求める癖があるから、ヒトの世界はオカルトになる。「かけがえのない想い出の品」は実在する。死んだ人間も存在する。そういう世界の中で、複雑な指向性の編み直しをやってる。そんな感じじゃないかと。
ここまでは8年前、現象学の入門書の感想で書いた。
下はその翌年、仏教の入門書を読んで書いた。
「俺は生まれてから死ぬまでずっと俺」とか「日本は昔からずっと続いてる」とかって、時間が繋がってると考え過ぎじゃないかと思ってて。
『大戦略』とかのシミュレーションみたいに、ターン制で考えたらどうか。ターン毎に前のターンは忘れることにする。とにかく今、目の前にこういう状況がある。状況に対して自分の反応がある。1ターン終わり。また忘れる。その繰り返し。
過去のしがらみを切り捨てて「これからどうするのがベストなのか」だけ考えられれば都合がいいことは多い。過去の罪なんかは、現状はないものなんだから、考えなくて済む。車に轢かれたとする。「なぜこんなことになったんだろう」に対して、俺か運転手かがよそ見してたからとか、取りあえずの答は出るかもしれんが、そもそもその道を通るに至ったいきさつとか言い出すと、どこまでも過去に遡って考えることができる。因果関係が複雑すぎて、結局のところ「たまたま」としか言えない。
たまたまの状況に対して反応して、次のたまたまが来る。
去年、小池龍之介『ブッダにならう 苦しまない練習』を読んだらこんなことが書いてあった。
今回は、実は私たちには自由意思などないのではないか、ということを考察してみましょう。
<…>
<…>私は子どもの頃、親に「もっと人の気持ちをわかるようになりなさい」と言われていました。しかしながら、それは無理でした。
なぜなら、私自身が心の底から「人の気持ちがわかるようになりたい」とは思っていなかったからです。そうやって上から押し付けるような説教をされますと、条件反射的に心には反発が生まれます。「人の気持ちくらいわかってるよ、ちぇッ」と。
その反発心は自動的に湧いてまいりますので、そこには自由な意思はないのです。
もしも「人の気持ちがわかった方が良い」ということを非常に深いレベルで納得させられて、心底そうだと思った場合には、人の気持ちを理解したいという方向に気持ちが変わるということもあり得るでしょう。
ただし、もし「わかりたい」という気になるといたしましても、それもまた、「相手の言葉により、どれだけ強いショック情報が入力され、心が反応するか」という条件反射に過ぎません。実は、そこにも自由意思はない。
<…>
例えば、地震に遭ったら、地震が起きなかった可能性というのは想定しませんから、たいていの場合、諦めるしかないでしょう。ところが、同じように自分の家が潰れたにしても、誰かにショベルカーか何かで壊されたら、ものすごく腹が立つはずです。
その差は何かというと、地震の主体は単なる自然であり、そこには選択の余地がないけれども、人がやった場合、「その人にはやらないという選択の余地もあったのではないかしらん」などと心のどこかで考えるので、腹が立つのです。
しかしながら、実際には、その相手はそういうことをやりたくなるという衝動が湧いてきた時に、そこから逃れるすべはなかったのです。
あいだを大部はしょって引用してるので誤解されるかもしれないが、人はそのときまでに蓄えた素養でもって、その場のできごとに条件反射で対応しているだけだ、ということ(だと思う)。
俺の考えるようなことはとっくの昔に言われてたし、もっと深いというか冷徹なとこまで行ってたと。
入力に対して、特定の出力を返すプログラムが、自分。
出力が当の自分にとって思わしくなくても、それしか返せない。それは「呪い」のようなものだと思う。
「今」の状況に「今の自分たち」を一斉に撒く。それぞれの「自分」が出力を返す。1ターン終了。次の「今」に進む。それだけ。これが因果で、この因果はオカルトじゃない。
そこにストーリーなんていうオカルトを絡めるから運命なんてのも出てくる。オカルトも信じれば影響が出てきて、実際にあるのと同じになる。それもまた呪い。
そういうものだと思ってる。オチはないです。
出すものと出し方
小学校高学年のとき、ノートにマンガを描きはじめた。タイムボカンシリーズが好きで、ああいう動物メカを描きたかった。子どもがよくやる、ここからビームが出て、ここがドリルになっててとか、そういうやつ。設定画で終わらせず、話のなかで活躍させたかった。
メカは自分が考えたものだからいいけど、人間を描くのが難しい。だから主人公をカラスにした。しかもすごく簡略化したやつ。
表紙に「なんとかコミックス第1巻」とか書いて、表3に広告を描いたりして、友だちと先生に無理やり読ませた。
いまだになにかにつけこんな調子で、人間を描けるようになるなどのまっとうな努力をすっ飛ばして、手っ取り早くブロードキャストの体裁を整えようとする。根がコマーシャル(商業的)でチープ。アートの逆側。
このブログもそんなふうだったから、普通の日記にしようとしてるが、これはこれでどうも気持ち悪い書き方になってるなと。
個人的に付けてる日記のなかから、人に見せられるものをこっちにコピペすればいいやと思ったんだけど、なにを人に言ったほうがよくて、なにがよくないのか、なにかにつけてわからない。結局こっちは外向けに書いてる。
以前のブログの書き方は、ちゃらけてたから下手な文章にするには都合がよかった。
うまいこと言ってる文章は基本的に危ない。なにかをすっ飛ばしてる可能性がある。だからTumblrでもテキストのリブログが多い人はフォローしてない。
けど文章書いてると、ついうまいこと言いたくなってしまう。文体がちゃらけてれば格好よくはならないし、わざと下手な言い方にもしやすかった。文章はもともと下手なんだけど、キャッチーになるのを回避するとか、やたら上から目線で偉そうなのを多少なりともごまかすとか、そういうのがやりやすかった。
っていうか問題はスタイルよりも、意味があることを書こうとしていることと、なのにカラスしか描けないようなことなんだけど。