『読み替えられた日本神話』

読み替えられた日本神話斎藤英喜『読み替えられた日本神話』、面白かった。
 記紀の成立から始まって、中世(これがメインっぽい)、近世の古神道、国家神道、戦後の研究、そんで現代まで。日本神話がその時々にどう解釈され、どう利用されたを書いてる。
 神話の利用って言うと、学校じゃ天孫降臨とか、政治の道具として使われたってことばっかり教わったが、この本はわりと逆。思考のツールとしてどう使われたかを書いてる。
 ざっくり俯瞰する形式が、いかにも新書でいい。最後の方の『もののけ姫』と『ナウシカ』の比較も、通り一遍じゃなく面白かった。

吾妻ひでお『逃亡日記』

逃亡日記■また東伏見だ。2回目の失踪って自宅のすぐ近所なのな。計画的じゃないからなんだろうけど、見つからないものなんだなあ。
 冒頭のマンガで「てかこれ『失踪日記』の便乗本じゃないのっ」「皆さん この本買わなくていいです! 漫画だけ 立ち読みして ください」って書いてるのがおかしい。
 つーことで漫画は前後にちょっとだけで、あとはインタビュー。絵、上手くなってる。

『タイアップの歌謡史』

タイアップの歌謡史速水健朗『タイアップの歌謡史』読んだ。
 仕掛けられた流行に大衆が乗っていく様子が、イメージとしてアタマに浮かぶんだけど、それに対する印象が、昔の話と今の話で違う。昔の話はダイナミックに感じる。最近の話はバカみたいに見える。
 昔は実際、時代がダイナミック動いてたんだろう。知らない過去は美化したくなるってのもある。流行の仕掛けも受容も、好意的に受け止められる。
 ’80年代、広告ブームとかあって、受け手のクセに送り手側のスタンスで(あるいは、さらにその上に立って)仕掛け方自体を「あれはいいよね」とか言ったりする風潮があった。’80年に俺は高1。分かったようなこと言いたがる時期が、調度このイヤな時代に重なった。’80年代は小賢しく、全然ダイナミックじゃない。今思えば恥ずかしい。
 ’90年代を過ぎてもまだ、踊らされてるヤツ、踊らせようとしてるヤツは、バカにしか見えない。例えば『あるある』自体がバカみたいだし、納豆を買いに走るヤツもバカみたい。音楽のタイアップも同様。
 たまたま自分がそういう世代だから、そう思うのかもなと思った。
 
 みんなが同じ曲を楽しめて、時代の曲として共有できればいいと思うんだけど、とっくにそうはいかなくなっていて。紅白も、俺が学生の頃にはもう、親の聴く曲と自分たちの聴く曲に断絶があって。っていうか紅白自体がダサくなってて。さらに今となっては、年長者向け、若者向け、両方ともに馴染みがなくて、ほとんど全部が等価に知らない音楽で。だからかえって、たまに聴くには面白いなと思ったりで。これは不幸なことだと思っていて。
 家さえ飛び出なければ、今ごろみんな揃って、おめでとうが言えたのに、どこで間違えたのか。
 
 タイアップ自体は別にいいんだけど、踊らされるのは単純に面白くない。「俺が、この曲を気に入った」っていう主体性を主観的に維持したい。最近のタイアップは周到なクセに、その辺デリカシーがないように感じる。これも俺が年食ったからかもしれんが。
 洋楽の国内盤をあんまり買いたくないのは、まず高いからだけど、背広の匂いがするからってのも大きい。日本先行発売とか、日本盤だけのボーナストラック収録とか、オビに書いてあると商売っけを感じてげんなりする。
 俺は作者にお金を払いたいんであって、背広の人を儲けさせたくはない。
 アニソンは露骨で、’90年代から変なポップスになってしまった。
 鉄人28号のテーマには「グリコ・グリコ・グーリーコー」と思いっきりスポンサー名が歌い込まれてるが、こういうのはわかりやすくていい。そこを除けばアニメのテーマ以外の何物でもないんで。
 
 あと、探す人・探さない人ってのもある。探さない人は、目に入る、耳に入るものの中から気に入ったものを選ぶ。テレビの影響は大きい。探す人は、自分から見付けに行く。テレビ関係なくなってくる。
 探す人が偉いのかっつーと、そんなことない。何にリソース割くかはその人の勝手だから。面白い曲探すヒマがあったら、他のことすればいいとも言えるんで。
 これに関しては言いたいことが山ほどあるけど、長くなるし考えもまとまってないからこの辺で。
 
 読んでていろいろ考えちゃって、面白かった。

新書

昆虫の世界へようこそ海野和男『昆虫の世界へようこそ』
 虫を撮り続けてるこの人ならではの文章。カラー写真も入ってる。

 コノハムシのオスはメスよりも葉に似ていない。しかしメスは飛べないのにオスは飛ぶことができる。コノハムシの場合はオスに飛翔能力があることで、広範囲に遺伝子交換ができるのだろう。けれどコノハムシはメス単独でも卵を産み増えることができるという。ここまで葉に似て、これ以上変化する必要がないとするならば、オスは不要ともいえるようにも思う。このことは見事な枝への類似を見せるナナフシでも同様だ。ナナフシではオスがほとんど発見されていない種類まであるのだ。

 メスは葉っぱに似てて安全。オスは危険を冒して遺伝子交換に動き回る。けど基本的にオスいらない。オス、カワイソス。他の生物もこんな感じか。アンコウみたいなのがいいな俺は。
 
宗教の経済思想保坂俊司『宗教の経済思想』
 これも面白かった。近代社会の発展には商業の発展が必要で、商業の発展には商業を肯定する宗教が必要。商業の発展にともなって商業を肯定する宗教が発展した。各宗教の経済観がどんなふうか紹介してる。

 大乗仏教の特徴に、在家主義、つまり世俗の生活を行いつつ仏教的な修行を行うことが可能である、というより日常生活こそ真の仏教修行の道である、という極めて現実主義的な思想がある。これはキリスト教世界におけるルターやカルヴァンの思想を一五〇〇年以上も先取りした思想ということができる。(P.131)

 とか

<…>筆者は仏教の救済(悟り)を住宅所得になぞらえて、ローン返済型宗教と呼んでいる。家(悟り:往生)を我が物とするために、一心にローン返済のために働くサラリーマンのようなものである。
 一方、ユダヤ・キリスト・イスラームのような救済宗教では、神がいずれこの家をあげるからそれまで家賃(信仰や義務)を払いなさい、とて入居時に契約してくれる、いわば「棚ボタ」型の救済構造である。だから、契約を信じ神の愛にすがって家が持てるまで家賃を払い続けるわけである。しかし、この家賃と神が最終的に家を下さることとは、直接的な関係はないというのがキリスト教の考えである。そして、契約を実行すれば、もらえるとするのがイスラームである。その中間に、カルヴァンの思想がある。つまり、神はあらかじめ誰にあげるか決めておられるが、それは秘密である。しかし、一生懸命家賃を払っているとなんとなく分かる、という具合である。
 また、初めから持ち家を持っている、すなわち救済というようなことを考えない宗教もある。神道である。神道では、初めから持ち家であり、ローンを組んだり、家賃を払う必要は無い。しかし、家を維持するためには、努力が必要であり、その努力がいわゆる祭りなどの神事である、と考えている。(P.153)

 みたいなことが、いろいろ具体的に書いてある。
 締めが松下幸之助。

<…>結局松下は、特定の宗教を持たなかったのであるが、しかし、宗教の重要性を彼は終生説き続けた。
 その後、彼は「企業もまた宗教のような意義のある組織になれば、人々はもっと満たされ、もっと働くようになる」と考えるようになった。(P.206)

 もっと働くようになる……。

 彼は自ら若者の技術習得のための機関を設立し、その学生に向かって「諸君は松下電器のために働いているのではない。自分自身と公衆のために働いているのだ」と訓示している。彼の仕事への姿勢がよく分かる一文である。しかも「販売は重要且つ高貴な職業である」として、職業の公共性や倫理性を持つことを教え、さらにその職業の聖化、つまりルターらの召命思想に通じる精神を教え込んだ。
 このような松下の経済倫理思想は、組織の末端にまで行き渡り、戦争を挟んで急激に発展する。そして一九五六年に彼は、売上四倍増の目標を立てる。しかし、それは「名声や儲けを求めるためのものではなく、あくまでも、製造業者が社会に対して負っていると私が信じる使命を達成する手段である」ということであった。
 もちろん一歩間違えば、宗教的な情熱で利益を稼ぎ出そうとする、理論のすり替えにもなりかねないものであるが、松下の信念は、この目標に向かい終生ぶれることはなかったようである。(P.207)

 昨今の儲かりゃいい的な風潮に対置させて、松下には倫理観があったという扱いだろうけど「一歩間違えば」が怖いっす。
 全体通して思うのは、昔からみなさん「儲かりゃいい」とは思わないんだなということで。自分のやってることがおかしかったり、社会的に認められないのは耐え難いというか、少なくともイヤなんだなと。いくら儲かってても。俺も「儲かりゃいい」とは思わんが、みんながホントにそうなのかね。
 アムウェイなんかも「みんなが幸せになる」的なことを言うし、その方が「もっと働くようになる」んだろうしな。
 あとセン経済学と二宮尊徳の話も興味深かった。

『エロの敵』

エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること■安田理央・雨宮まみ『エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること』読んだ。面白い。凄い。出て欲しかった本が、理想的な内容で出た。
 比べて良い悪いって言うのはアレだけど、ササキバラゴウ『〈美少女〉の現代史』読んだとき、史観はいいから、まず歴史そのものをちゃんとまとめてくれんかと思った。その点『エロの敵』はしっかり資料になってて良かった。巻末に年表もあるしね。
 エロ本を扱った第1章は、もともとそれなりに思い入れがあるから非常に面白かった。
 けどAVの2章になると「ああ、俺は熱心なAV消費者じゃないなあ」みたいな。3章のネットなんかは、有料コンテンツ利用したこと1回しかないし、ファイル共有もやってないし、携帯サイト見ないしで、結構遠い話になる。知らない話が増える分、勉強にはなる。
 
 エロ本のモノクロ記事を喜んでたのは一部の人間で、多くの人には邪魔だったってのは当然の話だろう。俺は喜んでた方だから、なくなって寂しいけども。俺にしたって、雑誌は雑多なものという前提があって、実際に面白い記事があったから良かったんで、記事がつまらなければ単に邪魔だった。
 一方で、ただやってるだけのAVじゃ面白くない的なニュアンスが気になった。個人的に、AVに面白さを求めてないから。雑誌ならエロとそれ以外は別のコンテンツだが、AVの場合エロの中に面白さが混じってくる。これは邪魔。「ただやってるだけじゃエロくない」ならわかるが。
 エロマンガでも「エロだけじゃないから偉い」みたいな評価のしかたが嫌いだ。もちろん、エロ以外の表現が優れているマンガが、エロのジャンルで発表されることがあるだろう。当然そういうのもあっていい。でも、エロだけじゃないから、エロだけのマンガより偉いっていうのは、エロをバカにしてる。基本的にエロは、いかにエロいかで評価されるべきだと思う。
 
 なんかハードディスクに大量の画像があるんだけど、ほとんどが水着なりコスプレなりの着衣であって、裸の画像は少ないんすね。裸は動画で見るものってアタマがある。そんで動画にしたって、アイドルのビデオを好んで見るタチだし。
 裸がレアだった若い頃はエロ本が主要なメディアだったが、AVの発展とエロの開放とともに年食って、ネット始める頃には過激さよりも、制約の中のエロに興味がいったからか。うわーネットにはモロが落ちてるなあと思いながら、あんまり拾わなかったな。
 飽食しちゃってるんで、最近はAV借りても使わずに返したりすることも多い。美人のが凄い見えてても、そんなに大したことなくって、ピンポイントのツボを突いてくれるかが問題。

『雑誌のカタチ』

雑誌のカタチ―編集者とデザイナーがつくった夢■山崎浩一『雑誌のカタチ―編集者とデザイナーがつくった夢』読んだ。これはオモロい。エディトリアル・デザインの話となると読者が限られそうなもんだが、なかなかどうして間口が広い。雑誌に興味があれば誰でも楽しめるんじゃないかと。モノクロながら図版が結構入ってるのもいい。
 扱ってるのは、POPEYE、少年マガジン、ぴあ、週刊文春、ワンダーランド、婦人公論、小学館の学年誌、クイックジャパン。現場の「雑誌のカタチ」に対する取り組みを紹介してる。
 キャッチは「雑誌が時代を先導し扇動できたのはなぜか?」で、これがテーマになってるが、それにばっかこだわってるわけじゃない。アマゾンの商品説明には小難しいこと書いてあるけど、実際はあんまり論じてなくて、むしろそこがいい。
 ウチの親とかですね、息子(俺)が何をやってるのか理解できないんですね。デザインっていうとまず服飾が頭に浮かぶ。次に工業製品。紙のデザインの意味がわからない。「この雑誌やった」と言うと、美術関係だからイラストを描いたのかと考える。でも描いてない。絵も文章も書いてなくて、写真も撮ってないなら、あと何の仕事があるのかと。そんなウチの親でも、これ読めば理解できるのではないかと。まあ、読まないけど。

世界の孫

世界の孫 1 (1)SABE『世界の孫』1巻
 妹キャラを超える孫キャラ。今のところ通しのストーリーはないっぽい。キャラで押すぶん、これまでの作品よりキャッチーかも。
 絵が上手いのが変な感じ。普通、上手い絵、上手い表現は、表現する内容のための手段だが、内容つっても変なキャラが変なことやってるだけのマンガだし。ジャケの絵も凄い良くて、良い分だけ変な感じ。いやもちろん、変で面白いです。
 
鈴木先生 1 (1)武富健治『鈴木先生』1巻
 評判いいみたいなんで買ってみた。面白かった。教師が合コンで知り合った人と付き合ってるって時点で、ちょっと違うなって感じがする。等身大っていうか。扱ってる問題が細かい。問題の扱い方も細かい。「デリケートなことだからさ」。小川蘇美は今後も悩ましい存在であってほしいな。
 表情とか構図とか変に大げさなとこは、ちょっと昔のマンガっぽい。
 
橋本治『失楽園の向こう側』
 ’00〜’03年にビッグコミックスペリオールに連載されたエッセイ。見かけて、内容も確認せずに買ったが、これまた面白かった。特に前半。