■こうの史代『さんさん録』1巻読んだ。
『長い道』は、全然わかんなかった。なんでこんな話を、どんな気持ちで、女の人が描いたのか。ネットで感想見て、「いい話」とか言ってる人がいたからちょっとびっくりした。
なるほど作者は「いい話」のつもりで描いたのかもしれない。でも、少なくとも男はこれをいい話と思っちゃいかんだろう。『Theかぼちゃワイン』のエルが理想じゃいけないのと同様に。いい話というより痛い。まさにこんな風に俺も身勝手だから。設定はともかく、感情はリアルなマンガだが、そのリアルさが怖い。
『さんさん録』も基本的に同じ路線のマンガだと思う。こっちは普通に面白かったが、やっぱりちょっと怖い。死んだ奥さんの愛情を、男の俺は素直に受け入れちゃいけない気がする。「受け入れていんですよ」と言われれば、その超絶ぶりがやっぱり怖い。俺もまともに家事できないから、俺にとってもマニュアルになったりするのだが、そういうのを暖かい目で見られてるのって怖いでしょ?
■作:久住昌之 画:谷口ジロー『散歩もの』、散歩中の気持ちの流れがリアル。同じコンビの『孤独のグルメ』と同じまったり感。
投稿者: ふじり
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俺様の懐の狭さ
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ブックオフで太腿回収
■ブックオフでシルビア・テレス『Amor em Hi-Fi』とデティ・クルニア『Dari Sunda』購入。シルビア・テレスはジャケではSilvia、レーベルとCDDBではSylviaになってる。なんだこれ。英語表記とポル語表記か? ボサノバ以前のシンガーだそうで、なるほどジャズボーカルっぽい。18歳の頃ジョアン・ジルベルトと付き合ってたそうな。風紀が乱れておるな。内容よりとにかくジャケの太腿。
■digi+KISHIN ソニンの本の方も早くも売りに出てたので回収。DVD観て「これなら本の方がいいや」と思ったんだが、本は本でもの足りなさがある。パブが載った雑誌買ってれば、本買わなくてもいいんじゃないか。なんだろうな、このファンの期待拒絶っぷりは。
プロダクトには不満があるが、ソニン自体は素晴らしい。スリムなモデル体型ではなく、グラビアアイドルの豊満体型からもズレて、ソニンはソニンとしか言い様がない体型を獲得した。がっちり好きの俺としても好みの範囲外ではあるが、これがソニンなんだから受け入れるしかない。ズレにこそ魅力があるソニンなんだから。いやもう、メイド服なんかかわいくてしょうがないよ。 -
モニタ見た
■モニタを見に、久しぶりに秋葉行った。駅周辺だいぶ変わってなんだかわからん。都は美観のために立て看とか撤去させたそうだが、ヨドバシの変な犬のイラストの方が環境に与えるインパクト大。
■ヨドバシのモニタコーナーはデモ画面流してるだけだったが、ラオックスのマックストアではL887が実際にマックで操作できた。パレットなんかやっぱ小っさいけど泣くほどじゃなかった。
CRTの17型はLCDの15型くらいなんだそうで、15.4型のエプソンノートと比べてみたら、なるほど実効面積はほぼ同じだった。ってことは、今ウチのCRTの解像度は85.7dpi。SXGAにすると106.4dpi。L887は99.6dpiだから、今より表示が小さくなるが、今のCRTをSXGAにしたときよりはデカい。許容範囲か。
ラオックスはナナオ2台の間にアップルの23型を並べて、いかにアップルの画面が赤いかという変なデモをやってた。一目瞭然、これ見るとアップルの23型は買いたくなくなる。説得力があるだけに変だ。アップルのだって売ってるわけだし。ナナオの方が利益率がいいからとかじゃなくて、たぶん、単にこの事実を伝えたいんだと思う。そんで、そういうことは普通あんまりやらないと思う。
こういうのは好きなんでラオックスで買いたいが、ドット欠けに対処してくれるツクモにするかも。っていうか買うかどうかまだ決めてないが。
■秋葉での買い物
・蛭児神 建(元)『出家日記—ある「おたく」の生涯』
・moecco Vol.1
・催涙スプレー -
Don’t push me cause I’m close to the edge
■ヤバい。俺ヤバイ。マジヤバい。くまきりあさ美よりヤバい。そのヤバいさなかにですね。アイドルDVDを買おうかどうしようか考えてたりするからわけわからん。ある意味年の功というか。
■あと液晶モニタどーするかで迷ってますね。
今ブラウン管使ってるんですよ。17型のアップルスタジオディスプレイ。SXGAだと表示が細かくて目につらいんで1056×792で使ってて、最近のアプリじゃさすがに狭い。っていうかもともと全然DTP向きじゃない。5年前の時点では液晶の画質が信じられんかったし、かといって17型よりデカいCRTは高いし置き場所困るしでこうなってるんですが。
もー今はCRTなんか売ってないし、液晶の画質も良くなったんだろうなーと思いつつ、やっぱ不安なんで信頼のブランド、ナナオのカタログもらってきたら、グラフィック用途向けのは高いっすね。
・21.3型UXGAのL997が約17万
・20.1型UXGAのL887が約12万
・19型SXGAのL797も約12万
こんな贅沢品はいらんから、よそのメーカーにないの? と思ったが、似たようなモニタは似たような値段みたい。そもそも中間調まで忠実再現というニーズが一般的でないらしい。
2chじゃ、アップルのはギラギラしてて目が疲れるという人がいて、疲れないのがL997とL887ってのが通説になってるみたい。新Mac板のこことか、ハード板のこれとか。公私ともにモニタに向かってる時間が長いから、目の疲れは結構深刻。年々視力下がってるし。巨乳でもないのに肩こりひどいし。
L887はアップルのとそんなに値段変わんないし、1600×1200ならかなり仕事の効率上がるしいいかなーと思いつつ、すげー表示細かくないか? みたいのもあって。「字をデカくすればいい」って話もあるが、DTPだと12ポイントは12ポイントだから。見にくいからって拡大率上げるんじゃ、画面が広い意味がない。イラストレーターのパス編集で数ドットを掴むのも細かいとしんどいし。
このスレによるとL887は99.6dpiで、今のウチのモニターは77.6dpiなんだよな。ウチのモニタをSXGA表示にすると96.4dpiでL887と近い数値になるが、これが現につらいんだよねー。LCDの方がアナログよりシャープだろうから、それで見やすいんならいいが、どうなんだ?
比較的解像度の低いL797ならよさそうだが、それじゃ今のモニタとたいして変わらんし。
CRT駆逐するほどLCDって進歩してないじゃん。みんな騙されてるよ。
安いLCDを買い足して、今のCRTとデュアルにするのがいいかもしれんが、その場合CPU切り替え器はどうなるんだ? -
去年より面倒くさがりになってるぞ
■宇多田さんの新曲が素晴らしすぎる。アルバム出たらCD買おうと思ってたが、ついカッとなって昨日iTMSで買ってしまって聴いて泣いた。そんで今日も聴いて泣いた。っていうか弱ってます。心身共に弱ってます。まー言うたら「応援ソング」なのだが宇多田さんの場合は無根拠に励ましてはくれず「ちゃんとやってるよな? ああ?」みたいな怖いとこがあるのでそんで泣いた。歌詞を置いといてもノリっていうか刻み方っていうかと音像が素敵だなと思った。とか言いながらauのCMでは「このイイカンジの歌は誰の?」とか思っててしばらく宇多田さんだとは気付かなかった。関係ないけどあるけどneonを買うかいっそ携帯やめてPHSだけにするか迷ってる。買うなら青だなーと思っててそしたらニンテンDS Liteも青かなーと思ってて、青のモックをいじったがちょっと意外な安っぽさでむしろ良かった。neon買わないならマカなので白。
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食人習慣
古本屋で買ったユリイカ’98年6月号に載ってた、カエターノ・ヴェローゾ『食人習慣』から部分引用。
僕にとってはとりわけ、オズヴァルドの一連の「マニフェスト」のショックが強かった。二四年の『パウ・ブラジル的詩作のマニフェスト』、そして特に二八年の『食人習慣的マニフェスト』である。この驚異的な美しさを誇る二つのテキストは、今日的であると同時にヨーロッパ的前衛主義からの開放だった。ヨーロッパで生まれた各種マニフェスト同様、これらもマリネッティの未来主義の申し子であり、特に前者はシュルリアリズムに先立って生まれている。また、この二つは、ブラジルの再発見であると同時に、新たなブラジルの創設でもあった。(略)
二番目のマニフェスト『食人習慣的マニフェスト』は、食いつくすことの隠喩を展開し、明示している。我々ブラジル人は、どこからくるなんであれ、真似をするのではなく、食い尽くさねばならない、あるいはアロルド・ヂ・カンポスの言葉を借りるなら、「ブラジル種の元で外来の経験を吸収し、これに、最終生成物が独自の性質を持つよう、そしてとりわけ、海外との接触において輸出用産品として機能する可能性を持つよう、疑いのない地域的特徴を加味しつつ、我々の流儀でこれを再発明」せねばならない。オズヴァルドは、使い古された形式、方程式を持つ不滅の輸入行為という(しかも、作者の側の想像力というよりは、過去の事例と未来への助言の出来の悪い集大成に見えていた)図式をひっくり返したのだ。そして、食人習慣という神話を提議し、国際的な文化関係に人食いの儀式を持ち込んだのである。インヂオがペーロ・フェルナンデス・サルヂーニャ神父をむさぼっている場面こそが、ブラジル文化、ひいては我々の国民性の基礎たる最初の場面となるのだ。
文化的食人習慣の思想は、トロピカリスタにぴったりと適合した。僕らはビートルズやジミ・ヘンドリックスを「食らっていた」からだ。しかし、トロピカーリアの中にも(そして食人習慣の中でも)ブラジルを観光客にとってもブラジル人にとってもエキゾチックにしてしまおうとする傾向があると見るのは妥当なことだ。疑いなく、ぼく自身も今日まで、この熱帯のカソリックの化け物が持つ奇妙な特徴を中和しようとする、平凡な国際的尊敬とやらを模索する名目で行われる滑稽な試みと思えるものは撃退してきている。無論、バナナを吊したターバンの連想が、ブラジル生まれの核物理学者や古典文学者の頭にとって、特に有益でないことくらいは僕にもわかる。ただ、僕が知っているのは、この「ブラジル」という事実が上記のような学問の研究者(あるいは新しい学問の発明者)を大勢輩出するような創造的エネルギーを発するとしたら、それは、この「ブラジル」が自身を前に臆病がらない場合だけであり、国際秩序に対し、可能な限り分別を働かせて従うことの落胆の上に、自己愛的喜びを位置させられる場合だけだと言うことだ。『オルフェウ・ド・カルナヴァル(黒いオルフェ)』が初公開されたとき、僕は十八歳だった。僕はこの映画をバイーアのバイシャ・ドス・サパテイロス(!)のシネ・ツピー(!)で見た。僕を含めて客席中が笑い、あのフランス人監督に、かくも魅力的なエキゾチシズムの産物を作り出させた厚かましい不正当性を恥ずかしく思った。我々ブラジル人がこの作品について下した批評は、「いったいなぜ、ブラジルを代表するもっとも純粋な音楽家たちは、このようなまやかしを装飾する(そして、これに威厳を添える)ために作品を提供することを承諾したのだろうか?」に要約される。この映画の元となった戯曲の作者であるヴィニシウス・ヂ・モライスが、ロードショー前に制作者が行った試写会の際、腹を立てて試写室を出ていったというのは、世に知られた事実だ。とはいえ、その魅力は外国人においては機能した。映画は(実にさまざまな文化レベルの人々にとって)ギリシャ神話のモダンで大衆的なお涙頂戴バージョンと映っただけでなく、この物語の背景となった極楽のような国を紹介するものだったのである。トロピカリズモが起こったとき、この作品はブラジルではすでに忘れ去られていた。しかし、六九年、僕らがロンドンへ着いてみると、レコード会社の役員たち、ヒッピー、インテリなど、知り合ったすべての人々が、一人の例外もなく、僕らがブラジル人だと知るやいなや、『黒いオルフェ』について熱狂的に語り出した。僕らはまだ、若干の恥ずかしさを覚えていたが、「カルナヴァルの朝」を歌ってくれというリクエストに応えるのは、多くの場合報われることだった。外国人(ロックのシンガー、第一線の小説家、フランス人社会学者、新人女優)によるブラジル発見物語のナラティヴは、今日に至っても絶えることがなく、そのどれもが忘れ得ぬマルセル・カミュの映画によって彩られているのである。エリザベス・ビショップは、リオから出した手紙の中で、最初は——恐らく詩人であり、ブラジルに長く住んでいたからであろうが——アメリカ人の友人たち(ロバート・ロウェルを含む)に向かって、あの映画は音楽は素晴らしいが、内容は彼らが思っているのとは逆にくだらないと言って説得しようとしていたが、じきに、その評価においてブラジル人とは距離を置きはじめ、映画の曲は「純粋な」リオのファヴェーラの音楽とは違うからという理由で評価しなくなった。ジョン・アップダイクは、部分的にはこの『オルフェ』に触発され、『ブラジル』と題された著書を書いたが、これはカミュの映画と大して変わるものではなかった。映画が封切られた時期に、この作品、詩、オルフェの神話とリオデジャネイロの町について、なにからなにまで正当な評論を書いたのは、唯一ジャン=リュック・ゴダールだけだった。トロピカリストにとってこの評論は、まさに自ら署名したいと望めるものだ。だが、これが書かれていたことを僕が知ったのは、七〇年代に入ってから、バイーアに戻った時だった。その間に、この映画についてなされたトリピカリズモ的批評は、とりわけ、外国人のブラジルに対する見方について、そしてエキゾチシズムを伴う愛と戦争の繊細さについての考察が深められたと指摘していた。
ややこしい文章だなあ。インテリだな。熱いな。
日本人だからエキゾチックなものとしてしか『オルフェ』は見れないけども、とても「極楽のよう」に見えなかったけどな。単に「うわー、貧乏だなー」と思った。一方’99年のリメイクはPVみたいで、それこそ「極楽のよう」に見えた。で、音楽はカエターノ。これはどうなんだ。ブラジル映画だからいいのかな。 -
みんな、うちじゅう、なんでも
■NHKでやってた『沖縄“笑いの巨人”伝 〜照屋林助が歩んだ戦後〜』見た。世相を折り込んだコミックソング歌うのなんか、吟遊詩人っぽい。そのうちCD買ってみよう。
ブラジル音楽も「伝統に根ざした大衆芸能」という中村とうようげなとこに惹かれてるんだけども、それはナショナリズムの産物で、もともと帰属意識が薄い俺にとっては違和感もある。
さらに日本の大衆芸能だと左翼っぽいというか、いや、戦後民主教育の申し子だから左にアレルギーはないんだけども、市民くさいというか、NHK向きというか、なんだろうな。例えばMPBに対して「午後のティータイム、ぼけーっとするのにいい」とかいうステレオタイプを、当の地方の人自身が演じてるような妙さが。
若者は自意識過剰なので、自分が若者であったときにはアーチストの自意識過剰に同調できたけども、年食ってくると鬱陶しいから「みんなのうた」に興味出てきたものの、自分を「市民」と位置付けるのはどうもなあ、みたいな。って言うかわざわざ東京出てきといてワールドミュージック好きってどういうの?みたいな。
そんで、ナショナリズムったって、「俺のナショナルってなによ?」みたいな。ブラジル人でも沖縄人でもないし、伝統から切れてるし、アメリカ文化に憧れた世代でもないし。テクノポリス・トキオなのか? あ、俺、関西人だ。じゃあネチズン? 一日中モニターの前にいてアンテナリロードしてるしな。
まー自分の出自なんて、わざわざ探すもんじゃないけど。自分の資産について考えてみたりして。グラフィック方面じゃ、やっぱり「侘び・寂・萌え」みたいのはしっくりくるんだけど、もうオタでもないしなあ。確かに電子音を聴きながら、アニメ見て育って、それしかないんだけども、そういうのは世代論みたいでつまらんし。