投稿者: ふじり

  • オカルト

     去年ピンドラに「運命」とか出てきて、シュタゲはSFだから情緒的なことは言わないけど因果とか出てきて、前々から考えてたことを思い出して書こうとしたが、過去ログ見たら前々から書いてたので自分の文章を引用する。

     俺らは自分で思ってるほど科学的・客観的にものを考えてなくて、オカルトがかった世界に生きてるんじゃないか。
     例えば「かけがえのない想い出の品」には、物理的な根拠がない。持ち主のストーリーが、物にかけがえのなさを付加してる。けども「かけがえのない想い出の品」って概念は一般的に通るから、その価値は一般に実在してる。
     「ストーリー(お話)=オカルト」みたいな感じ。当然「オカルトだからダメ」ってことじゃなく、お話が通じるところでは、お話の中のものは現にあるということで。

     で、うまく繋げて言えないんだけど、シャーレの中に簡単な生物を入れて、片っぽに光を当てると、光を好む生物ならそっちに集まって、嫌う生物なら逆側に集まる。さらにエサを加える、別の生物も加える、とか状況をややこしくしていくと、結果もややこしくなっていく。
     俺らはあらかじめややこしい事態の中にいるんだけど、個別の指向性だけ取り出せば、やっぱり光に集まるとか、電車にミニスカートの女子がいれば向かいに座るとか、シンプルな原因と結果に、想像的には還元できる。
     そういう個別の反応が複雑な条件で積み重なった結果が「今」。
     「偶然はない、すべては必然」みたいな言い方がある。そう言えば言えるが、要素が複雑すぎて因果関係は追いきれないはずだから「偶然」って言っちゃった方が適切でもある。
     いろんなことが起きた中で、何が重大で何が取るに足らないかは人が決める。現在の結果から振り返って、過去に意味づけする。追い切れない無意味な因果関係を、わかりやすくて意味のある流れに置き換える。そうやって人生とか、運命とか、歴史とかは、今を起点にストーリー化される。
     意味を求める癖があるから、ヒトの世界はオカルトになる。「かけがえのない想い出の品」は実在する。死んだ人間も存在する。そういう世界の中で、複雑な指向性の編み直しをやってる。そんな感じじゃないかと。

     ここまでは8年前、現象学の入門書の感想で書いた。
     下はその翌年、仏教の入門書を読んで書いた。

     「俺は生まれてから死ぬまでずっと俺」とか「日本は昔からずっと続いてる」とかって、時間が繋がってると考え過ぎじゃないかと思ってて。
     『大戦略』とかのシミュレーションみたいに、ターン制で考えたらどうか。ターン毎に前のターンは忘れることにする。とにかく今、目の前にこういう状況がある。状況に対して自分の反応がある。1ターン終わり。また忘れる。その繰り返し。
     過去のしがらみを切り捨てて「これからどうするのがベストなのか」だけ考えられれば都合がいいことは多い。過去の罪なんかは、現状はないものなんだから、考えなくて済む。

     車に轢かれたとする。「なぜこんなことになったんだろう」に対して、俺か運転手かがよそ見してたからとか、取りあえずの答は出るかもしれんが、そもそもその道を通るに至ったいきさつとか言い出すと、どこまでも過去に遡って考えることができる。因果関係が複雑すぎて、結局のところ「たまたま」としか言えない。
     たまたまの状況に対して反応して、次のたまたまが来る。

     去年、小池龍之介『ブッダにならう 苦しまない練習』を読んだらこんなことが書いてあった。

     今回は、実は私たちには自由意思などないのではないか、ということを考察してみましょう。
     <…>
     <…>私は子どもの頃、親に「もっと人の気持ちをわかるようになりなさい」と言われていました。しかしながら、それは無理でした。
     なぜなら、私自身が心の底から「人の気持ちがわかるようになりたい」とは思っていなかったからです。そうやって上から押し付けるような説教をされますと、条件反射的に心には反発が生まれます。「人の気持ちくらいわかってるよ、ちぇッ」と。
     その反発心は自動的に湧いてまいりますので、そこには自由な意思はないのです。
     もしも「人の気持ちがわかった方が良い」ということを非常に深いレベルで納得させられて、心底そうだと思った場合には、人の気持ちを理解したいという方向に気持ちが変わるということもあり得るでしょう。
     ただし、もし「わかりたい」という気になるといたしましても、それもまた、「相手の言葉により、どれだけ強いショック情報が入力され、心が反応するか」という条件反射に過ぎません。実は、そこにも自由意思はない。
     <…>
     例えば、地震に遭ったら、地震が起きなかった可能性というのは想定しませんから、たいていの場合、諦めるしかないでしょう。ところが、同じように自分の家が潰れたにしても、誰かにショベルカーか何かで壊されたら、ものすごく腹が立つはずです。
     その差は何かというと、地震の主体は単なる自然であり、そこには選択の余地がないけれども、人がやった場合、「その人にはやらないという選択の余地もあったのではないかしらん」などと心のどこかで考えるので、腹が立つのです。
     しかしながら、実際には、その相手はそういうことをやりたくなるという衝動が湧いてきた時に、そこから逃れるすべはなかったのです。

     あいだを大部はしょって引用してるので誤解されるかもしれないが、人はそのときまでに蓄えた素養でもって、その場のできごとに条件反射で対応しているだけだ、ということ(だと思う)。
     俺の考えるようなことはとっくの昔に言われてたし、もっと深いというか冷徹なとこまで行ってたと。

     入力に対して、特定の出力を返すプログラムが、自分。
     出力が当の自分にとって思わしくなくても、それしか返せない。それは「呪い」のようなものだと思う。
     「今」の状況に「今の自分たち」を一斉に撒く。それぞれの「自分」が出力を返す。1ターン終了。次の「今」に進む。それだけ。これが因果で、この因果はオカルトじゃない。
     そこにストーリーなんていうオカルトを絡めるから運命なんてのも出てくる。オカルトも信じれば影響が出てきて、実際にあるのと同じになる。それもまた呪い。
     そういうものだと思ってる。オチはないです。

  • シュタゲ

     iPhone版のSTEINS;GATEをやった。おもろかった。
     うろ覚えだけど、ピンドラは日常の大切さがひとつのテーマ的なことを幾原監督が言ってた。
     シュタゲは、厨二病で誇大妄想の主人公が実際に陰謀に巻き込まれる過程で、若干まともになりつつ日常を取り戻す。大きい異常な話を脱して、小さいところへ落ち着く話。
     今はそんなふうなのかなと思った。
     
     トゥルーエンドに進むためには、ときどき送られてくるメールに適切な返信をしなきゃいけない。けど、どの返信がどんな結果に繋がるか、まず予想できない。攻略サイトを見ながらやった。攻略記事の存在か、総当たりがプレイの前提なんだろうか。もうちょっとちゃんとゲームにできそうに思うんだけど。
     シャワーシーンの湯気が濃くてなんも見えず、他機種版はどうなのか検索したらやっぱり違った。アップルは厳しいからなあ。

  • PowerShot S95

    Canon デジタルカメラ Powershot S95 PSS95 1000万画素高感度CCD 光学3.8倍ズーム 広角28mm 3.0型液晶 F2.0 S100が出て型落ちになり、そろそろ底値っぽかったのでS95購入。まだあんまりいじってない。やっぱり格上のカメラはちゃんとできてるなあ、という印象。

     今まで使ってたのはFinePix F50fd。低感度での写りはいいんだけど、ISOオートは積極的に感度を上げてくるので使い物にならず、かといって自分でこまめに感度を変えるのも面倒くさいから200固定で撮ってた。
     我慢できなかったのは手ブレ補正。照明の効いた夜の室内くらいの明るさで、絶対にブレる。この辺の速度で手ブレ補正機構がキックバックを起こすらしい。オフにした方がマシ。
     それと、発色に独特の癖があるのがだんだん気になってきた。

     S95買って問題が解消したうえに、いろいろ楽になった。標準域で撮ることが多いため、レンズ外周のリングでステップズームできるのがありがたい。前回の焦点距離で起動するから、35ミリのまま使い続けることもできる。露出補正も背面ダイヤルでいきなりできて便利。
     AFエリアはセンター固定で使っている。F50fdも、その前に使っていたLumix DMC-FX7も、センターといっても測距エリアが広めで、思ったところにピントが合わないことがあった。S95はAFフレームサイズ小に設定しておけば、ちゃんとセンターに合う。
     もともとウェブに上げるときはレタッチしてたから、ロウ現像も面倒はなく、むしろ歪曲収差のプロファイルがあったりで手間が省ける。

     下はなんでもない試し撮り。クリックで拡大。小っこいカメラでこんだけ写れば立派。電線がフリンジ出てもにょもにょしてるけど。階調がのっぺりして立体感がないのはコンパクトの限界か。
     赤がくどいが、現像時のプロファイルをニュートラルかアドビスタンダードにすればすっきりする。ロウ現像初めてだからいろいろいじってみないと。
    test

  • 出すものと出し方

     小学校高学年のとき、ノートにマンガを描きはじめた。タイムボカンシリーズが好きで、ああいう動物メカを描きたかった。子どもがよくやる、ここからビームが出て、ここがドリルになっててとか、そういうやつ。設定画で終わらせず、話のなかで活躍させたかった。
     メカは自分が考えたものだからいいけど、人間を描くのが難しい。だから主人公をカラスにした。しかもすごく簡略化したやつ。
     表紙に「なんとかコミックス第1巻」とか書いて、表3に広告を描いたりして、友だちと先生に無理やり読ませた。
     いまだになにかにつけこんな調子で、人間を描けるようになるなどのまっとうな努力をすっ飛ばして、手っ取り早くブロードキャストの体裁を整えようとする。根がコマーシャル(商業的)でチープ。アートの逆側。

     このブログもそんなふうだったから、普通の日記にしようとしてるが、これはこれでどうも気持ち悪い書き方になってるなと。
     個人的に付けてる日記のなかから、人に見せられるものをこっちにコピペすればいいやと思ったんだけど、なにを人に言ったほうがよくて、なにがよくないのか、なにかにつけてわからない。結局こっちは外向けに書いてる。

     以前のブログの書き方は、ちゃらけてたから下手な文章にするには都合がよかった。
     うまいこと言ってる文章は基本的に危ない。なにかをすっ飛ばしてる可能性がある。だからTumblrでもテキストのリブログが多い人はフォローしてない。
     けど文章書いてると、ついうまいこと言いたくなってしまう。文体がちゃらけてれば格好よくはならないし、わざと下手な言い方にもしやすかった。文章はもともと下手なんだけど、キャッチーになるのを回避するとか、やたら上から目線で偉そうなのを多少なりともごまかすとか、そういうのがやりやすかった。

     っていうか問題はスタイルよりも、意味があることを書こうとしていることと、なのにカラスしか描けないようなことなんだけど。

  • ゼルダ終わった

     おもしろかった。88時間。
     王道って感じで、厭な要素が少なく、そのぶん変なところがないのは残念、と思ったら、トワプリのときも同じこと書いてた。25周年を意識してなのか、今回はさらにアク抜きされてる。時のオカリナでキモかった黄金のスタルチュラに相当するのが「感謝の気持ち」なのは象徴的な気がする。大変おもしろかったんだけど、次は何か新しい要素がないとやらないかも。
     辛口2周目ちょっとやってみたら、やっぱり冒頭のゼルダ(人物)の演出はあざといわ。スローモーション気味に振り返るところとか。同性に嫌われるタイプ。ショール脱ぐとことか造形含めていいんだけど。
    「ほら、かわいいでしょ」って主張されると引くし、「名作なんですよ」って胸を張られても人ごとになるし。こちらから愛せる要素が欲しい。

     前髪ぱっつん、エキゾチックな顔立ち、耳大きくて、Fairiesの下村実生がゼルダ似。

  • ジョジョリオンとか

    ジョジョリオン 1 (ジャンプコミックス) 荒木飛呂彦『ジョジョリオン』1巻
     ジョジョを読むようになったのはあとの方からで、最初からリアルタイムで読んでる人に対して引け目がある。「自分のジャンル」ではなく、横から覗かせてもらってるような。今回そんなこと気にせず引き込まれ、「うわーおもしろい!」と思いながら読んだ。

     ミュージックマガジン立ち読み。年間ベスト。ラテン部門ベスト5のうち3枚がブラジル。マリーザ・モンチ、セウ・ジョルジ、カルカニョット。
     マリーザ・モンチはクロスレビューでも取り上げられていた。デキはいいが新味がない的な評価で、点数もそれなり。ああ、やっぱりそうなのかと思った。確かに新譜聴いてる感が薄いのよ。新味が必要ない種類の音楽もあるが、マリーザ・モンチに安定されても困る。

  • 昨日の続き

     早速アップルストアから交換製品の用意ができたとメールがあった。通常1週間から10日だが、いつになるかは確約できないと言われていたのに、翌日に来てありがたい。のだが、5日以内に取りに来い、無理なら電話しろとメールは続く。さすがアップルは常識を越えてる。

     マリーザ・モンチは買ったが、アドリアーナ・カルカニョット、マリア・ヒタ、セウ・ジョルジの新譜などを我慢している。
     昔ほど音楽をちゃんと聴かなくなったので、どんどん買わずに、持ってるのをしっかり聴けばいいじゃんと。けど、買ってかないと水の流れが滞るような感じがある。あれもこれも聴いてわかることがある。

     ウェブの日記は、買い物日記として始めた。ホームページ作るのが流行ったあと、みんなが特定のコンテンツ作ることから、楽な日記にシフトしだした。有名人でもないのに日記はないだろうと。でもやっぱ楽だし知人の日記は面白いので、じゃあ俺は買ったものについてだけ書こうと。レビューなら意味もあるし、お金払ったものについては言いたいこと言っていいだろうと。
     その後そういう縛りはなくしたのに、お金がなくなると買い物ができず、書くことも減ってしまった。どんだけ消費に依存してるのかと。

     何年か前に帰省したとき、コタツの上に置いたiPodを見て、母親がこれはなんだと訊いた。mp3どうのこうの言ってもわかるわけがないから、この中にCD何百枚ぶんも入ってるんだと説明する。ぽかんとしてるので「CDは知ってるやろ?」と言うと「なあん!」と言って怒った。レコードとテープで止まっていて、たぶんCD自体は見たことがあって知ってはいるが、名前と結びついていないのだろう。
     うちの母は演歌の番組が好きで、録画してテープが劣化するほど繰り返し見ている。DVDレコーダーなら劣化しないと聞いて欲しいという。絶対使えないからやめとけと言った。
     翌年帰省したらDVDレコーダーがあった。「使えてるの?」と訊くと「わーはっはっは」と笑う。「いや、使えてんの?」「わーはっはっは」。やっぱり使えないらしい。さらに翌年、使えるようになったらしい。
     どんどん新譜を買ってかないと滞るとか言ってる俺より、テープ劣化するまで見てる母の方がちゃんとしたリスナーに思えるし、デジタル化の恩恵も受けてる感じがする。母親が好きな歌手は確かに上手いと思うから、耳も確かな感じがする。