■真実一郎『サラリーマン漫画の戦後史』読んだ。
作品との距離感が流石だなあと思った。距離感っていうと外側から眺めてる感じがしちゃうな。そうじゃなくて、中に入っていって、でも語る言葉は外向きに覚めてる。マンガの解説ってこういうふうに書くのかと思った。お手本みたいな。
マンガを通してみる戦後サラリーマン史でもあり、景気による世相と労働感の変遷が見渡せる。マンガだけじゃなく映画やCMなんかも扱ってて、年表とか好きな者には大変面白いです。自分の足場がどうやってできてきたのか確認できる。
以降、読みながら考えたことで、直接本の感想ではないです。
’70年代のサラリーマンマンガは、父親が読むもので、父親が描かれたものだった。当時小中学生の俺は田村信とか山上たつひこが好物であって、新聞4コマみたいのはちっとも面白くなかった。笑点で「うまいね!」とかいわれて座布団もらえるけど、全然笑えないみたいな。
前に響鬼の感想で書いたけども、マンガやテレビで描かれるサラリーマン像は、これから大人になる子どもにとって、しんどいものだった。
俺らの世代がサラリーマンは厭だと思えたのも、今後まだ経済成長があって、その上で自分は自由にやれるからだった。今、不況で就職難で、個人的にもフリーやってけなくなったが、もう雇ってくれるところもない。サラリーマンになるのも難しい。
なのに、この本でまとめられてる黄金期のサラリーマン像を見ても、やっぱり魅力的に思えない。対人関係でうまくやれれば成功って、「仕事」なのか。
職場の人間関係は働く者の幸せに繋がるし、仕事の上でも当然重要。でもやっぱり仕事そのものじゃない。もうちょっとドライというか実利的に、仕事を疑似家族と切り離してもらわないと、いろいろしんどい。
最後の第5章には「承認」という言葉がたくさん出てくる。承認の求め方が変わってきたって話。
仕事を通して承認を得るっていうのは普通だけど、仕事以前に帰属と承認が問題なんだろう。帰属そのものが承認だとしんどい。仲間に入れる入れないの話で、入れなければ社会に入れてもらえないってことだから。
生活と生産が家単位・村単位だったときは、生まれた時点で帰属と承認が得られてたはず。でも、それはそれで不自由でもあって、望んで家を出たのもあるんだろう。家さえ飛び出なければ今ごろみんな揃って、おめでとうが言えたのにどこで間違えたのか。宗教を信じられたら、いくらかは解決すんだろうな。
思い出したが、社会に居場所を見つけるマンガだった『赤灯えれじい』は父親が過労死してる。だからどうしたっていう話はあんまり出てこないけど、前提としてある。
生活のために働くってのは普通で、生活を犠牲にして働くとなると、なんのこっちゃわからなくなるが、実際には普通にある。今後もまだそれで行くのかってことだと思う。