「80年代地下文化論」講義

東京大学「80年代地下文化論」講義宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』読んだ。
 80年代は「スカ」だったのか。80年代を語る切り口はバブルとオタクが一般的だけど、ほかにあるんじゃないか。ということでこの本は、原宿にあったクラブ『ピテカントロプス・エレクトス(ピテカン)』をキーに80年代を語ってる。著者は劇作家でラジカル・ガジベリビンバ・システムやってた人。「地下」ってのはアングラじゃなくてピテカンが地下にあったから。
 本書でピテカンが象徴するものをまとめると、批評性、ニューウェイブ、かっこよさ(美学)、不合理性(=儲からないもの=文化)、みたいなことになると思う。ピテカンはかっこよくて、ニューウェイブで、批評性があって、儲からなかったと。まとめすぎだけど、そんな感じかと。ピテカンは当時の文化人にとってすら敷居の高い、センスエリートの集まる場所だった。

 「ピテカントロプス・エレクトス」という文脈がひとつ、こちら側にある。それから、「ピテカントロプス・エレクトス」とまったく対峙するところに、「おたく」があります。(p.399)

 「おたく」はピテカンの逆。「おたく」は閉塞して批評性がなく、保守的で、かっこ悪くて敷居なんかないと。
 
 セゾングループの文化活動について語ったあと、楽天とライブドアは企業メセナに興味を示さないという話が続く。

 この人たちが、企業メセナに対してなんの興味を持たないというのはどういうことか。つまり「文化」に興味がない。自分たちにとって一番の価値、手にとってわかる価値としての、たとえば「貨幣」であるとか、それから別の企業を買収することによって得られる価値に対してはきわめて関心が高いらしいんだけども、「文化」という不合理なものに対する理解や関心というのがまったくないとしたら、その無関心はいったいどこからやってくるのかということです。
 よく「お里が知れる」と言いますけど、そういった意味で「彼らの『お里』はどこか」をまず考えていくべきではないか。メセナに興味がないことでお里が知れるとするなら、最初から結論を話しますが、やっぱり「80年代的なおたく」というところに辿り着くんだろうと推測できるんです。彼らの出自はそこにあったんだと。
 そして、彼らが最も憎悪したものがおそらく「西武セゾン文化」であり、それに繋がってピテカンもあるし「ニューウェーブ」といわれるものもあるし、それから六本木WAVE、こうしたものをきわめて強く憎悪していたという心性はあきらかにある。(p.95)

 途中までは「ふむふむ」と読めるんだけど「おたく」が出てきたところからわからなくなる。「IT企業=パソコンオタクの集団」というイメージなら話は繋がるが、そういうことでもないだろう。ピテカンの裏側にあるものとして「おたく」が使われてる。独自に拡大解釈された「おたく」。で、「おたく」は中森明夫が最初に書いたように、排除される、笑われる対象だったから、ピテカン的なものを憎悪してると言う。最下位だった連中が逆襲してるのだと。

 80年代、「おたく」に代表される、「文化的な差異のヒエラルキー」の下に括られた人たちが、80年代が終わった途端、「スカ」だと言葉にしたのなら、それはまさにルサンチマンにしか見えない。ピテカンのだめな部分もあった。だけど、それをも乗り越えて、やはり、あの空間と、桑原茂一が持っていた理念のほうに、現在の可能性を見いだしたい、と思うんですよ。(p.404)

 うーん。「80年代はスカ」と言い出したのは「おたく」かなあ。もっと上の世代の人たちだと思うけど。実際にそういうキャッチフレーズの本をおたく寄りのライターが書いたにしても、80年代後半にはもう言われ始めてた。俺は実際言われたし。「80年代には何もない」って年上の人から。70年代までに青春送った人から見れば、80年代は大したことが起きてないから「スカ」と。
 ほかにも「おたく」の閉塞性・保守性の先にナショナリズムがあるとか出てくる。なんか今までなかった観点から強烈なオタク叩きをしてるなあと思った。
 まあでも聴くべきことも多いし、本全体は面白かった。
 
 オマケ。「80年代はスカ」の言い出しっぺのような本を読んでみた。これ
 
 さて、昔話。年寄りの繰り言。
 この種の対立って、全然ピンと来ないんだよな。オタVS新人類も。
 オタと新人類にはシームレスな部分があったように思う。新人類の代表格であり「おたく」の命名者である中森明夫が(途中から)発行人を務めたミニコミ、『東京おとなクラブ』にだって結構オタっぽい要素が入ってた。と、書けるのも、当時オタだった俺が現に『おとなクラブ』を買ってたからで。
 前にも書いたけど、対立するほど両者が異質だとすれば、オタはアニメにしか興味ないって定義なんだから、新人類なんて視野に入ってないはずだ。中森明夫みたいに向こうから絡んで来ない限り対立も何も起きるはずがない。中森明夫の件だってそれだけで終わったはず。
 まとめると、ニューウェイバーでもあったオタクは、(少なくとも主観的には)同族だと思っていたから対立する必要がない。同族嫌悪の可能性も考えにくい。オタ以外の要素がなかった人は、攻撃されない限り誰とも対立する必要がない。ネアカ・ネクラの分類で言うと、オタはネクラの側だから、ネアカに恨みを持つ可能性はある。でも、’90年代に入ってもネクラがネアカより有利な立場になったりしない。仮にルサンチマンを持っていたとしても、反撃に出てルサンチマンを顕在化させるチャンスなどなかった。いずれにせよオタクの側からの新人類への対立なんて、問題になるわけがない。
 結局のところ対立があったとすれば、って言うか、対立があることにしたいのは、新人類の側がオタに敵対心を持ってるからじゃないか。なんで文化的ヒエラルキーの下にいる人間を今に至るまでいちいち気にして絡んで来るのかわからん。それこそどういう種類の「憎悪」があるんだか謎だ。
 俺は中高6年間どっぷりオタで、マンガ・アニメ・SF周辺にしか興味なかった。中学に上がるときに劇場版ヤマトがあって、テレビでザンボット、ダイターン、ガンダムと続いたもんで、これはなんか大変なことになってるなと思って、それ以外がなくなった。ほかの趣味と言えば釣りくらい。
 だもんで音楽聴き始めたのは高校出てから。このあたりで中森明夫『「おたく」の研究』を読んでショックを受けたってのもある。いつまでもオタじゃいかんなと。
 で、「さあ音楽聴くか」となったとき、一番身近にあったのがYMOだった。アニメ関係の友達が聴いてたのがYMOだったから。あと中学の時から『ビックリハウス』買ってたってのも大きい。YMO周辺の人に好感を持ってた。
 時期的には散開直前の頃。YMOは滑り込みっていうか、ほとんど俺はリアルタイムで聴いてなくて、友達が聴いてる音楽だった。散開するってんで、FMでそれまでのアルバムを丸ごと全部かける特集があった。カセットに録音して、そればっか聴いてた。
 その後YMOから辿ってニューウェイブ聴きだした。音楽の話をする相手は、アニメの話をする相手と同じだった。そんなんだからオタとニューウェイブが対立概念ってのはピンと来ない。ライディーンもテクノポリスも普通に大ヒットした。『BGM』以降も離れてさえいなければ、YMOというチャンネルひとつ持ってるだけで、いろんなものにアクセスできたのだ。
 マンガもそう。大友克洋をはじめ、マンガの方のニューウェイブはSF関係の雑誌に載ってたからオタの領分だった。ガロも買ってたし普通にいろいろ読んでた。『漫画ブリッコ』での岡崎京子、桜沢エリカも楽しんでた。岡崎京子がブリッコで人気なかったつったって、途中までコラムというか落書きみたいなものでマンガじゃなかったしな。エロ本でエロ以外が人気取れないのは当たり前でもある。「ブリッコ読者は岡崎京子を評価しなかった」というかたちで、ことさらに取り上げる方がいやらしい。
 『「おたく」の研究』読んで脱オタを計ったところで、モテを目指すという選択肢が俺にはなかったから、ピテカン的なものに反発のようなものがないではない。今も「オシャレ」は敵と思ってるし。けども、この本が言うような、そんな根の深いルサンチマンって……。仮に俺の学生時代の環境がいくらか特殊で、オタはとことん閉鎖的でオタ以外を憎んでるのが普通だとしても、ルサンチマンを向ける相手はDQNに連なる人種じゃないのかな。新人類とかピテカンとか視野にないでしょう。
 とかまあね、自分が見てきたものを基準にしてしか話せないわけで、それはこの本も同じだし、ごく最近の過去について細かく掘り下げること自体がわりと不毛だなと思った。若い人は80年代のことなんて全然気にしないでいいと思う。

ニオイガメ、ドロガメの医・食・住

ニオイガメ、ドロガメの医・食・住菅野宏文『ニオイガメ、ドロガメの医・食・住』。ニオイ・ドロだけで1冊は快挙。3年ほど前にニオイガメ飼い始めたときは情報が少なくて困った。困るのは俺だけじゃなかろうと思ってサイト作ったりした。
 この本、内容が整理されてない感じで、押さえるべきポイントがわかりにくいのが惜しい。図を入れれば済むところを長々と文章で説明したり、同じ話が複数回出てきたりも。けどやっぱり出てくれてありがたい。
 ニオイガメはあまり動かないカメって書いてあるが、他のカメはもっと動くのかなあ。ウチのカメは十分以上によく動くけどウチのだけおかしいのか?

磯部潮『発達障害かもしれない』

発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子磯部潮『発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子』読んだ。高機能自閉症、アスペルガー症候群に関する理解を促す本。メインターゲットは子どもに関わる親や教師なんだろう。
 高機能自閉症というのは、普通に暮らせるけど自閉症っぽい傾向がある人だと思ってた。この本によれば、自閉症なのに高機能なせいでそう見られず、誤解を受けやすい人らしい。言い方・視点の違いっぽくもあるが、根本的に全然違うんだろう。高機能自閉症は、高機能だが、あくまで自閉症、とうことらしい。
 自閉症の概念が広まったのが’60年代後半というのは意外だった。俺は’65年生まれなんだけど、自閉症の同級生がいた。幼稚園から中学まで一緒で、自閉症はある意味身近だったから、もっと昔からある概念だと思ってた。彼の両親はしばらくの間、自分の子どもが何でああなのかわかんなかったのかもしれない。
 電車に乗るとよくそいつに会った。ずっと乗ってるらしい。挨拶すると「おう!」とか返事が返ってくるけど、それだけで話はできない。自閉症は手順にこだわるらしいから、決まった時間に決まったルートを走る鉄道は魅力的なのかもしれん。と、理屈では思うけど、なんでそこまで惹かれるか謎。鉄っちゃんって変な人多いよなあ。
 著者の意図するところとズレてんだろうけど、自分に似たとこ、自分と違うとことか、いろいろ興味深かった。なんかうまく行ってないと思う人には、かなり面白い本だと思う。
 自閉症だと感情移入ができないらしい。抽象化もできないらしい。視聴覚で選択的にものを捉えることもできない。カクテルパーティー効果やパターン認識がうまく働かないらしい。

 頭の中は映像の洪水
 しかし高機能自閉症やアスペルガー症候群の人たちは、自閉症患者と同様、視覚領域においては一般人より優位性が発揮されることがしばしばあります。
 前述したように、私たちは物事や出来事の不必要な部分を意識することなく切り取り、必要なものだけを記憶する選択的注意という能力を持っています。しかし彼らは、無意識レベルで切り取ることなく、物事を記憶します。普通私たちは注目しているものに焦点を合わせて、それ以外のものは意識することはないのですが、彼らは写真のように全体の映像を切り取るのです。(p.73)

 

 こういう症状はどのように説明すればよいのでしょうか。
 私は、これはデジタルカメラのファインダーで世界を切り取ったようなものではないかと考えています。
 見るもの、感じるものを一瞬一瞬、場面場面で切り取るため、自分の内的世界に残像はあるものの、全体的に捉えたり、抽象化したり、他社と体験を共有することができなくなるのではないでしょうか。
 これは先ほどの「五感の過敏性」にもつながっています。つまり、ファインダーで切り取ったファイルをハードディスクに次々と入力し続けているため、容量がすぐにいっぱいになってしまうわけです。
 ただし、抽象化や全体化という修飾を受けていない分、ファイル自体の鮮明度は、おそらく極めて高いのではないでしょうか。自閉症の子どもが驚異的な記憶力を発揮するのは、このためではないかと思います。
 この能力も、生活する上で計り知れない不都合があると思います。他者と体験を共有できなければ人付き合いができないでしょうし、抽象化や全体化ができなければ他者とコミュニケートすることもままならないでしょう。しかし、この能力は、私たちに新たな発見をもたらす可能性もあるはずです。先入観を排して物事を見るということは、私たちにはありえないことですが、彼らにはそれが可能なのです。
 世には知られていないだけで、世紀の大発見をした人物の中に、おそらく多くの高機能自閉症やアスペルガー症候群の人がいたと私は考えています。その証拠に、偉人伝には変人やまるで協調性のない人、おそろしく自分勝手な人が数多く登場します。具体的には先のアインシュタイン博士や、発明王として知られるトーマス・エジソンもアスペルガー症候群だったろうと考えられています。日本では、坂本竜馬や織田信長がそうだったのではないかと言われています。
 
 私たちの視点は普遍的なものか
 先に述べたように、自閉症児の視点は私たちとは異なります。では、私たちの視点は普遍的といえるのでしょうか。あるいは、物事の本質を見抜いているといえるのでしょうか。ひょっとしたら、私たちの視点は、単に生活をしやすくするため、言い換えれば、生存しやすくするために手に入れた特性かもしれません。
 本来、自閉症の人が持つ「五感の過敏性」と「状況への認知の歪み」こそ、本来人類が本能として持っていたものであり、私たち人類は生存を容易くするために、進化の過程で「選択的注意」を獲得したのではないでしょうか。
 たしかに私たちは選択的注意のおかげで格段に生活しやすくなり、生存し子孫を残すことに成功したのかもしれません。けれども、ある程度安全が保証された現代において、選択的注意は必ずしも完璧である必要はないのではないでしょうか。だからこそ、選択的注意が不完全な自閉症が生まれたのかもしれないのです。
 私たち一般人の視点は、あくまで進化の過程で備わったものであり、普遍的なものではありません。自閉症児の物事のとらえ方や視点の中にこそ、人類が選択的注意を獲得する以前の、人間としての本能や普遍的な視点が隠されているのではないかと思うのです。
 なぜ私がこんなことを考えるのかというと、自閉症児の視点は、常に一定の自らの快感原則に従っているように見えるからです。しかもその視点は、自分を中心にして三六〇度、物事を均等に平等に先入観なく取り入れているように思えます。(p.31)

 認知に関する知識がないんだけど、これは変じゃないかなあ。センサーの入力をそのまま受け入れる高等生物なんていないんじゃないか。人間のそれとは違うかもしれないけど、どんな生き物でも不必要な情報は捨ててるはず。選択的注意をしないのが「本来」なんてことはないだろう。それはやっぱりエラーだと思う。
 でも、次の段階、言わばニュータイプとしての選択的注意の放棄ってのは、お話としては面白い。

古本

細野晴臣インタビューTHE ENDLESS TALKING■文庫で1470円という値段にびびった『細野晴臣インタビューTHE ENDLESS TALKING』を古本屋にて半額で購入。風呂の中で半分読んだ。『チャタヌガ・チュー・チュー』はカルメン・ミランダのコピーって、そのまま書いてあるな。
 
■『「中学英語」を復習してモノにする本』も『えいご漬け』攻略本として約半額で購入。この手の本は字がデカい。つまり内容薄い。コストパフォーマンス悪い。新品で買う気せず。

買い物

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■児ポ。’58年初版。折り返しの内容紹介は下世話だが、中身はまともっぽい。著者はカメラマンで、’53年から3年半ブラジルに住んでいる間、4回アマゾンに入ったそうだ。面白そう。
 
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■『黄金のバラ』、クレメンチーナ買った店に売ってた。どっちも800円だったのよ。それでこの内容だから嬉しくて汁が出ちゃう。
 伝説的な同名のショーをレコード化したもので、クレメンチーナのデビュー作にあたるそうな。メンツは、アラシイ・コルテス、クレメンチーナ・ヂ・ジェズース、エルトン・メデイロス、パウリーニョ・ダ・ヴィオラ、ジャイル・ド・カヴァキーニョ、ネルソン・サルジェント、ネスカルジーニョ・ド・サルゲイロ。
 
これが私の御主人様1 (1)■原作:まっつー 作画:椿あす『これが私の御主人様』1巻、ブックオフでちょっと立ち読みしたら意外と(失礼?)面白かったんで購入。可愛い女の子が出てくるだけのマンガだろうと思ってたら、ホントにその通りで内容のなさに驚いた。メイドでオタでドタバタで、楽しませる要素しか入ってない。半端なラブコメより全然いい。こんなマンガなのにパンチラすらなかなか出てこない抑え具合もいい。
 
■私信
 これ→大人には聞こえない着信音。やっぱり聞こえん。

CD付きの新書

久保田麻琴『世界の音を訪ねる—音の錬金術師の旅日記』
 なんと新書にCDが付いてた。何インチだっけ? 小っこいヤツ。3曲入り。モロッコのミュージシャンと録音したものだとか。よくわかんないけど面白い。俺はどんな音楽にも詳しくないから、どんな音楽もよくわかんないす。
 本はまだ読んでないんすけどね。MOTHERで忙しくて。ちょっと見たところ、ミュージシャンらしい文体で、読みにくげだけど面白げ。
 
 岩波新書の新刊、面白そうなのが複数あって困る。10冊出たうち、全然興味ないのは3冊だけ。MOTHERで忙しいんだけどな。っていうか、本読むのは外食のときと、ときどき風呂と、たまに電車乗るときだけだから、なかなか進まないんだよな。今も2冊溜めてるし。柄谷行人『世界共和国へ—資本=ネーション=国家を超えて』は読みたいな。末木文美士『日本宗教史』も買うかも。