おおこしたかのぶ『美少女マンガ創世記』

美少女マンガ創世記: ぼくたちの80年代 (一般書) えびはら武司/山本直樹/ものたりぬ/大島岳詩/河本ひろし/浅井裕(あさいもとゆき)/浦嶋嶺至/みやすのんき/町野変丸/りえちゃん14歳/山野 一/遠山 光/田沼雄一郎/新貝田鉄也郎/ダーティ・松本/中島史雄、そして『漫画ホットミルク』初代編集長、斎藤礼子のインタビューを収録。
 なんであの人がいないの?(たぶん断られたんだろうなあ)的なこともあり、内容的にももうちょっと突っ込めたんじゃないかという感もあり。失礼ながらぶっちゃけ「今、食えてんの?」って疑問があるわけで、みなさん食えてるようでなによりなんですが、それならそれでどこでどう活躍してるかもうちょっと詳しく知りたかったり。
 まあでも全体におもろかったです。一気に読めた。

マイケル教えて! 被災猫応援の教科書

マイケル教えて!被災猫応援の教科書 (KCデラックス) 2年前に出た本。最近知った。タイトルどおりの内容。表紙にマンガ家の名前が並んでるものの、本の半分以上が文章。
 真面目な本だから、こういう喜び方をしにくいのだけど、なんと『いけない!ルナ先生』の新作が載ってます。このサイトで取り上げないわけにはいくまい。わずか5ページ、お色気控えめだけど読めて嬉しい。

オカルト

 去年ピンドラに「運命」とか出てきて、シュタゲはSFだから情緒的なことは言わないけど因果とか出てきて、前々から考えてたことを思い出して書こうとしたが、過去ログ見たら前々から書いてたので自分の文章を引用する。

 俺らは自分で思ってるほど科学的・客観的にものを考えてなくて、オカルトがかった世界に生きてるんじゃないか。
 例えば「かけがえのない想い出の品」には、物理的な根拠がない。持ち主のストーリーが、物にかけがえのなさを付加してる。けども「かけがえのない想い出の品」って概念は一般的に通るから、その価値は一般に実在してる。
 「ストーリー(お話)=オカルト」みたいな感じ。当然「オカルトだからダメ」ってことじゃなく、お話が通じるところでは、お話の中のものは現にあるということで。

 で、うまく繋げて言えないんだけど、シャーレの中に簡単な生物を入れて、片っぽに光を当てると、光を好む生物ならそっちに集まって、嫌う生物なら逆側に集まる。さらにエサを加える、別の生物も加える、とか状況をややこしくしていくと、結果もややこしくなっていく。
 俺らはあらかじめややこしい事態の中にいるんだけど、個別の指向性だけ取り出せば、やっぱり光に集まるとか、電車にミニスカートの女子がいれば向かいに座るとか、シンプルな原因と結果に、想像的には還元できる。
 そういう個別の反応が複雑な条件で積み重なった結果が「今」。
 「偶然はない、すべては必然」みたいな言い方がある。そう言えば言えるが、要素が複雑すぎて因果関係は追いきれないはずだから「偶然」って言っちゃった方が適切でもある。
 いろんなことが起きた中で、何が重大で何が取るに足らないかは人が決める。現在の結果から振り返って、過去に意味づけする。追い切れない無意味な因果関係を、わかりやすくて意味のある流れに置き換える。そうやって人生とか、運命とか、歴史とかは、今を起点にストーリー化される。
 意味を求める癖があるから、ヒトの世界はオカルトになる。「かけがえのない想い出の品」は実在する。死んだ人間も存在する。そういう世界の中で、複雑な指向性の編み直しをやってる。そんな感じじゃないかと。

 ここまでは8年前、現象学の入門書の感想で書いた。
 下はその翌年、仏教の入門書を読んで書いた。

 「俺は生まれてから死ぬまでずっと俺」とか「日本は昔からずっと続いてる」とかって、時間が繋がってると考え過ぎじゃないかと思ってて。
 『大戦略』とかのシミュレーションみたいに、ターン制で考えたらどうか。ターン毎に前のターンは忘れることにする。とにかく今、目の前にこういう状況がある。状況に対して自分の反応がある。1ターン終わり。また忘れる。その繰り返し。
 過去のしがらみを切り捨てて「これからどうするのがベストなのか」だけ考えられれば都合がいいことは多い。過去の罪なんかは、現状はないものなんだから、考えなくて済む。

 車に轢かれたとする。「なぜこんなことになったんだろう」に対して、俺か運転手かがよそ見してたからとか、取りあえずの答は出るかもしれんが、そもそもその道を通るに至ったいきさつとか言い出すと、どこまでも過去に遡って考えることができる。因果関係が複雑すぎて、結局のところ「たまたま」としか言えない。
 たまたまの状況に対して反応して、次のたまたまが来る。


 去年、小池龍之介『ブッダにならう 苦しまない練習』を読んだらこんなことが書いてあった。

 今回は、実は私たちには自由意思などないのではないか、ということを考察してみましょう。
 <…>
 <…>私は子どもの頃、親に「もっと人の気持ちをわかるようになりなさい」と言われていました。しかしながら、それは無理でした。
 なぜなら、私自身が心の底から「人の気持ちがわかるようになりたい」とは思っていなかったからです。そうやって上から押し付けるような説教をされますと、条件反射的に心には反発が生まれます。「人の気持ちくらいわかってるよ、ちぇッ」と。
 その反発心は自動的に湧いてまいりますので、そこには自由な意思はないのです。
 もしも「人の気持ちがわかった方が良い」ということを非常に深いレベルで納得させられて、心底そうだと思った場合には、人の気持ちを理解したいという方向に気持ちが変わるということもあり得るでしょう。
 ただし、もし「わかりたい」という気になるといたしましても、それもまた、「相手の言葉により、どれだけ強いショック情報が入力され、心が反応するか」という条件反射に過ぎません。実は、そこにも自由意思はない。
 <…>
 例えば、地震に遭ったら、地震が起きなかった可能性というのは想定しませんから、たいていの場合、諦めるしかないでしょう。ところが、同じように自分の家が潰れたにしても、誰かにショベルカーか何かで壊されたら、ものすごく腹が立つはずです。
 その差は何かというと、地震の主体は単なる自然であり、そこには選択の余地がないけれども、人がやった場合、「その人にはやらないという選択の余地もあったのではないかしらん」などと心のどこかで考えるので、腹が立つのです。
 しかしながら、実際には、その相手はそういうことをやりたくなるという衝動が湧いてきた時に、そこから逃れるすべはなかったのです。

 あいだを大部はしょって引用してるので誤解されるかもしれないが、人はそのときまでに蓄えた素養でもって、その場のできごとに条件反射で対応しているだけだ、ということ(だと思う)。
 俺の考えるようなことはとっくの昔に言われてたし、もっと深いというか冷徹なとこまで行ってたと。

 入力に対して、特定の出力を返すプログラムが、自分。
 出力が当の自分にとって思わしくなくても、それしか返せない。それは「呪い」のようなものだと思う。
 「今」の状況に「今の自分たち」を一斉に撒く。それぞれの「自分」が出力を返す。1ターン終了。次の「今」に進む。それだけ。これが因果で、この因果はオカルトじゃない。
 そこにストーリーなんていうオカルトを絡めるから運命なんてのも出てくる。オカルトも信じれば影響が出てきて、実際にあるのと同じになる。それもまた呪い。
 そういうものだと思ってる。オチはないです。

ツノゼミ

ツノゼミ ありえない虫丸山宗利『ツノゼミ ありえない虫』買った。
 著者のブログ断虫亭日常はいつも写真を楽しみに見させてもらってる。かっこいいんですよね。標本の写真に「かっこいい」っていうのはおかしいのかもしれないけど、どうにもキリッとしてかっこいい。虫以外の写真も面白い。
 ツノゼミは「ツノ」の部分が奇怪なかたちになっているものが多い。サブタイトルに「ありえない虫」とあるが、「どうしてこうなった」って感じ。
 この本ではバラエティーに富んだツノゼミの姿が、美しい写真で楽しめる。コンパクトなA5判で値段も手頃。紙面もおしゃれな仕上がり。変ではあるけどグロくはないんで、「とにかく虫はダメ」って人以外なら大丈夫だと思う。
 左隅に原寸大写真が載ってるのもいい。「わずか数ミリの」と言われてもピンと来ないが、写真で見ると「こんな小っちゃいんだ!?」ってなる。
 
■本文より長い余談です。
 ’85年に出た『珍虫と奇虫』っていう図鑑を持ってる。中身はタイトルどおり。ツノゼミも載ってる。この本を見たときちょっとショックだった。
 昔はオタクでロボットとかSF的なメカばっかり描いてたんだけど、これはかなわんな、人間の考えるものは知れてるなと思った。
 生物はそれぞれの生存戦略(お)でもって適応進化したと習った。その理屈は生き物の不思議を全部吸収する。わかった気になれる。けどこの図鑑で現物の多様さを見せつけられると、話が単純じゃないとわかる。合理的にできてるにせよ、意味がわからず非合理にせよ、「どうしてこうなった」が戻ってくる。知るほど不思議っていうか。
 
 話が変な方に行きますが、オカルトって不思議なものを扱うけど、不思議なものに手っ取り早いオチも付けるでしょう。例えば理解しがたい現象が起きたとする。解明するまで不思議が残る。そこで「これは霊の仕業ですね」って言っちゃうとオチが付く。不思議が消える。
 西洋医学で対処できない病気が、漢方でなんとかなったのを実際に経験してる。漢方は、科学的に説明が付いた部分もあるし、経験の積み重ねだったりもするけど、もともとの理屈は今となってはオカルトでしょう(って言ったら怒られるかもしれんけど)。でも効いた。ある文脈で説明できないものに、別の文脈を持ってくるとなんとかなるっていうのはあると思う。
 なので、オカルトのオチの付け方も有用な場合があるとは思う。「ここに霊がいます」って言うとき、それ以外の言葉では説明できないなにかがあるんでしょう。
 でも楽しむっていうか、それと向き合うぶんには、わかろうとしたうえで、わからないものはわからないまま保留する方が面白いと思う。わからない部分にはまだ先があるから。
 とかまあ、全然科学的知識がないからこんなこと言うんだろうけど。
 さらにまた別の話で『工場萌え』とかね。「萌え」って着地点付ければわかりやすい。「おお、工場って萌えるよなあ」って共感を呼ぶ。でも、わかりやすくしちゃうと、なんかの型にはまっちゃって、なんかが抜けていく。対象とのあいだにフィルターが1枚入って、そのものが見えなくなる。
 
 『珍虫と奇虫』には、現実を見せることで頭で考えたごちゃごちゃを吹き飛ばす力があったんですよ、大げさに言うと。そんでこの『ツノゼミ』もそういう本だと思う。ちょっと面白い話題を提供して終わりじゃなくて、入り口を見せてくれるような。
 
 『珍虫と奇虫』は絶版で、書影が検索しても見つからなかったからスキャンした。せっかくなんで、古くなって汚いのはそのまま大きめに載せときます。
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『傷だらけの店長』

傷だらけの店長 〜それでもやらねばならない〜伊達雅彦『傷だらけの店長 〜それでもやらねばならない〜』読んだ。
 薄給で人手不足で拘束時間が長くて、でも本が好きだから書店員を続けていたが、近所に大型店が進出してきて。みたいな話がやたらかっこいい文体で書かれている。
 書店の実情ってどんなんだろう、という興味で買って、そっち方面でも面白かったんだが、こういうことは書店に限らず起こってる。しぼんでる業種はいろいろある。
 そんで、仕事に対する思いと現状のギャップなんかは、さらに広くどの業種でも同様だろうなと思った。
 なので共感っていうと気恥ずかしい感じがするけど、お仕事に関する本として、とても面白かった。
 
 客が探している本を見つけられたら嬉しいとある。探しているものがはっきりしてればともかく、漠然とした質問は迷惑だろうと思っていて、俺はしたことがない。そういうのでもやっぱり嬉しいもんなんですな書店員としては。もちろん場合によるだろうけど。言われてみればそうか。自分の技能でお客さんに喜んでもらうのが基本だもんな。
 っていうか書店員と本に関する話をした覚えがない。
 音楽だと、レコードの時代は店員に頼めばどれでも試聴できた。そのときに店員にいろいろ教えてもらったりした。レンタル屋でも、これが好きならこれも好きなはず、とか、これは聴いとかないととか、新譜出たから聴くよねつって返事しないうちに袋入れられたりとか、楽しかったけど。
 今でもマニア向けの店だとそんなんかもしれんけど、近所の普通の店でいろいろ教えてもらうって、まあ当然減ってるわね。模型屋とかカメラ屋とかも。ネットがあるから情報は増えたけども。

『サラリーマン漫画の戦後史』

サラリーマン漫画の戦後史 (新書y 240)真実一郎『サラリーマン漫画の戦後史』読んだ。
 作品との距離感が流石だなあと思った。距離感っていうと外側から眺めてる感じがしちゃうな。そうじゃなくて、中に入っていって、でも語る言葉は外向きに覚めてる。マンガの解説ってこういうふうに書くのかと思った。お手本みたいな。
 
 マンガを通してみる戦後サラリーマン史でもあり、景気による世相と労働感の変遷が見渡せる。マンガだけじゃなく映画やCMなんかも扱ってて、年表とか好きな者には大変面白いです。自分の足場がどうやってできてきたのか確認できる。
 
 以降、読みながら考えたことで、直接本の感想ではないです。
 ’70年代のサラリーマンマンガは、父親が読むもので、父親が描かれたものだった。当時小中学生の俺は田村信とか山上たつひこが好物であって、新聞4コマみたいのはちっとも面白くなかった。笑点で「うまいね!」とかいわれて座布団もらえるけど、全然笑えないみたいな。
 前に響鬼の感想で書いたけども、マンガやテレビで描かれるサラリーマン像は、これから大人になる子どもにとって、しんどいものだった。
 
 俺らの世代がサラリーマンは厭だと思えたのも、今後まだ経済成長があって、その上で自分は自由にやれるからだった。今、不況で就職難で、個人的にもフリーやってけなくなったが、もう雇ってくれるところもない。サラリーマンになるのも難しい。
 なのに、この本でまとめられてる黄金期のサラリーマン像を見ても、やっぱり魅力的に思えない。対人関係でうまくやれれば成功って、「仕事」なのか。
 職場の人間関係は働く者の幸せに繋がるし、仕事の上でも当然重要。でもやっぱり仕事そのものじゃない。もうちょっとドライというか実利的に、仕事を疑似家族と切り離してもらわないと、いろいろしんどい。
 
 最後の第5章には「承認」という言葉がたくさん出てくる。承認の求め方が変わってきたって話。
 仕事を通して承認を得るっていうのは普通だけど、仕事以前に帰属と承認が問題なんだろう。帰属そのものが承認だとしんどい。仲間に入れる入れないの話で、入れなければ社会に入れてもらえないってことだから。
 生活と生産が家単位・村単位だったときは、生まれた時点で帰属と承認が得られてたはず。でも、それはそれで不自由でもあって、望んで家を出たのもあるんだろう。家さえ飛び出なければ今ごろみんな揃って、おめでとうが言えたのにどこで間違えたのか。宗教を信じられたら、いくらかは解決すんだろうな。
 思い出したが、社会に居場所を見つけるマンガだった『赤灯えれじい』は父親が過労死してる。だからどうしたっていう話はあんまり出てこないけど、前提としてある。
 生活のために働くってのは普通で、生活を犠牲にして働くとなると、なんのこっちゃわからなくなるが、実際には普通にある。今後もまだそれで行くのかってことだと思う。

『サはサイエンスのサ』

サはサイエンスのサ鹿野 司『サはサイエンスのサ』読んだ。
 『ログイン』の連載ぐらいしか知らなくて、まとめて読むのは初めて。科学エッセイなんだけど、わかりやすく書く能力が凄いですな。どなた様にもお勧め。
 時事ネタ、文化にも話は及んで、そっちもわかりやすい。すぱすぱとわかりやすいものは何かを飛ばしてるから、読む側の方で気を付けなきゃいけないけど、著者の方はむしろその辺に慎重というか「科学でなんでもわかっちゃうんだよ」みたいなスタンスじゃないのが面白い。
 はやぶさのこと全然知らなくて、たまたまこれで読んでて良かった。
 たまたまと言えば、おととい帰ってくるのもノーチェックだったけど、ツイッターのおかげで楽しめました。