みんな、うちじゅう、なんでも

■NHKでやってた『沖縄“笑いの巨人”伝 〜照屋林助が歩んだ戦後〜』見た。世相を折り込んだコミックソング歌うのなんか、吟遊詩人っぽい。そのうちCD買ってみよう。
 ブラジル音楽も「伝統に根ざした大衆芸能」という中村とうようげなとこに惹かれてるんだけども、それはナショナリズムの産物で、もともと帰属意識が薄い俺にとっては違和感もある。
 さらに日本の大衆芸能だと左翼っぽいというか、いや、戦後民主教育の申し子だから左にアレルギーはないんだけども、市民くさいというか、NHK向きというか、なんだろうな。例えばMPBに対して「午後のティータイム、ぼけーっとするのにいい」とかいうステレオタイプを、当の地方の人自身が演じてるような妙さが。
 若者は自意識過剰なので、自分が若者であったときにはアーチストの自意識過剰に同調できたけども、年食ってくると鬱陶しいから「みんなのうた」に興味出てきたものの、自分を「市民」と位置付けるのはどうもなあ、みたいな。って言うかわざわざ東京出てきといてワールドミュージック好きってどういうの?みたいな。
 そんで、ナショナリズムったって、「俺のナショナルってなによ?」みたいな。ブラジル人でも沖縄人でもないし、伝統から切れてるし、アメリカ文化に憧れた世代でもないし。テクノポリス・トキオなのか? あ、俺、関西人だ。じゃあネチズン? 一日中モニターの前にいてアンテナリロードしてるしな。
 まー自分の出自なんて、わざわざ探すもんじゃないけど。自分の資産について考えてみたりして。グラフィック方面じゃ、やっぱり「侘び・寂・萌え」みたいのはしっくりくるんだけど、もうオタでもないしなあ。確かに電子音を聴きながら、アニメ見て育って、それしかないんだけども、そういうのは世代論みたいでつまらんし。

日曜のテレビ

スタ☆メンは爆笑問題太田が、ひとりでしゃべり場的な熱さを見せてて、しかもちゃんとしゃべれてないから嫌いな人は嫌いだと思う。
 俺は太田の真面目な話に感心したことがない。普通のことしか言ってない。でもテレビで普通のことを言う人は少ない。ちゃんと言えないことも含めて普通の言い方で、普通のことをしゃべってるのが面白いと思う。バラエティーとはいえ報道系の番組で、報道の仕方がおかしいとか言ってる。事件に対して、人ごととして俯瞰するんじゃなく自分の問題として引き受けるスタンスが、テレビではかなり珍しい。
 あと阿川佐和子が好きなんで見てる。この前、しゃべってるうちにわけわかんなくなった太田に対して「私の胸で泣きなさい」って腕を広げてた。どきどきした。
 
■響鬼はまあ、濡れもっちーは良かったなということで。
 ファイズを見続けるのがしんどくて、ブレイドの途中で脱落したけども、龍騎は好きだから一応カブトに期待しとく。
 
■マジレンはデカレンに比べて後退した感があって、なんとなく見なかったが、ボウケンジャーは末永遥が出るんでまた見る。末永遥も今年で二十歳らしい。滝沢乃南がこないだ二十歳と考えるとぐるぐるしてくる。芸歴は末永遙が長いが、滝沢乃南は既に中年の色気をたたえており……。

奇祭

■ずっと仕事してますが、24日は国を挙げてのSEXの日なので、俺も例年どおりお面を付けて街へ繰り出し、どこの誰かもわからん人とさんざんやってきました。クリスマスというのは「断ってはいけない」ってルールだから、自分からアクティブにいかないと損ですな。新宿御苑の方に凄い人だかりができてて、あれが秋山奈々だとか、甜歌りんだとか噂が飛んでたんで俺も向かったんだけど、朝までに辿り着けませんでした。
 
■寒空の下、尻出してたからか、翌日は風邪気味。仕事しててもぼえーっとしてきてダメなんで、M-1グランプリを初めて観た。お笑い方面薄い人間としてはなんか妙なものだった。しかめっつらして審査してたり。
 俺は薄いからか、ルックスを含めたスタイル重視なんだなあと思った。笑い飯なんかは見た目でまず好きになれなくて、笑う気になれない。南海キャンディーズは調子悪い感じだったけど、スタイルは好ましいんで笑っていきたいと思える。
 単に好みなんだけど、レギュラーはせめて「ワオ」って言わないでほしいとか、オリエンタルラジオはせめて「レッツゴー」って言わないでほしいとか、そういうの大事なんだ俺的には。
 今田のゆるい司会がよかったと思う俺には、完成度重視っぽい審査は馴染めん気がした。ブラックマヨネーズはオモロかったけど。
 
■正月帰れそうにないんで、年末年始はぬるめに仕事したりテレビ観たりするかと思って、久々にテレビブロス買った。わざとやってた古いデザインが板に付いて、単にダサい誌面になってないか?

橋本治と響鬼

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amazon橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』
 「日本人は」と言うとき、高みから俯瞰してものを言うか、「われわれ日本人は」みたいに内側から勝手に代表者になるかだけど、橋本治の場合は、日本人がよその人みたいなニュアンスがある。上からでも中からでもなく、よそから見てる。
 この人の本読んでると、よそに連れて行かれるから怖くなる。
 
■関係あるようなないような話だけども、響鬼。
 ウチの父親は会社員で、俺は子どもの頃、会社員というのが何をやってるかわからんかった。背広を着て出かけて、酔っぱらって帰ってくる。その間に何をやってるのかわからない。マスオさんのようなものだろうと思うんだけど、マスオさんが何をやってるのかわからない。自分が学校に行くように会社に行って、時間を売って給料をもらってくるんだろうと思ってた。それはまあそれで間違いじゃない。
 世の中のお父さんのほとんどはサラリーマンだから、「サラリーマン」という言葉を使うのも主にサラリーマンだった。そんで「サラリーマン」には自虐的なニュアンスがあった。歯車であるとか。会社では上司に、家では妻に、やいやい言われる。日曜日は寝てよう日で、ごろごろして邪魔にされる。家は母親が仕切っていて、家族から見れば給料を運ぶだけの存在。そういうものであると、当のお父さん自身が位置付けてた。
 当然というかなんというか、息子である俺的には、父親が、父親の仕事が、まるで魅力的に見えない。っていうか、つまらないものだと思えた。
 父親みたいになりたくないなあと思いながら育つ。思うだけで言いはしないが(もしかしたら、なんかのひょうしに言ったかもしれんが)、父親はそれを察知して、「お前はつまらないと思ってるかもしれないが、俺にだって楽しいことはあるんだ。ゴルフとか」って言い出すから、なおさらつまらないなあと思う。
 そんなこんなで父親みたいなサラリーマンを避けて、ジャンル分けとしては「マスコミ系」であり「クリエイター系」の職に就いたんだけど、こないだまで会社員でもあった。一部、エッジな人々を除けば、クリエイターも単に専門職であって、ほかとそんなに違わない。自分が知ってる狭い範囲で言えば、どの仕事でも大事なのは気を利かせることだろう。自分に何が求められてるか察知して、その通りやる能力。求める相手は上司、クライアント、エンドユーザーといろいろあるからややこしかったりはする。それと、何が求めてられてるかわかった上で、その通りやらないという選択肢もある。けどとにかく、誰が何を求めてるかわかんないと、ズラしていい幅もわからない。
 なんにしてもニーズを気にしないでやりたいことをやってお金がもらえるというのはラッキーというか特殊というか難しい状況で、普通は人様の要望に応えるからこそお金がもらえる。誰かの意に沿うから、誰かがお金を払ってくれる。そんな当たり前のことが子どもの頃はわかんなかった。
 あらかじめお金が唸ってるんでなきゃ、残念ながら、どうにかして稼がなきゃいけない。人それぞれ稼ぐ手段が必要で、それぞれ手段は違うが、おおむね変わらないっちゃー変わらない。人のためになんかやって、人からお金をもらう。父親の仕事にどのくらいの面白みがあって、どのくらいつらかったのか知らないが、取りあえず俺の仕事と全然違うものじゃないだろうと思う。父親は父親なりに生活の維持を考えたんだろうし、俺は俺なりに持続できる仕事を模索してる。
 それで思うのは、俺らの親の世代のサラリーマンが自虐的だったことは、結果的にあんまりよくなかったなーってこと。ホントに「結果的」で、今だから言えることだし、今言ってもしょうがないんだけど。つらさも誇りも素直に伝えてればよかったのに。
 『13歳のハローワーク』は読んでないけど、「キミたちの可能性はいろいろあるよ」みたいのはもう足りすぎてるんで、周回遅れに見える。
 
 そんで響鬼だけども、響鬼は働くおじさんだった。人のために仕事をしてた。仕事ってのはクビにならない範囲で手を抜けるものだけど、「鍛えてますから」は、真摯に仕事に取り組んでるってことだった。響鬼は働くおじさんの背中を見せてた。これこそが足りないものだった。親が見せてくれなかったものだった。
 響鬼はヒーローで、特殊な才能であって、若者が憧れるに足る存在だけど、みんなが鬼になる必要はなかった。立花でお茶を運ぶのだって、ひとつの立派な役割だった。ヒーローチームが資金集めのために地道に飲食店やってるのは、面白さを狙っただけの設定じゃないだろう。少年がブラバンでドラムを担当できなくても、ホイッスルという役割を果たせばよかった。明日を夢見る少年としては当然面白くないが、実際やってみれば思い通りにならなかったりするもので、同様に鬼の素質があるかも謎だ。それでも少年なりに鍛えて、自分の場で、自分にできる、自分のやるべきことをやればいい。
 だから劇中であきらが鬼になる必要もなかったし、少年が弟子にならなくてもよかった。
 一方で30話以降のあきらのセリフ「私は鬼になれるんでしょうか?」は自己実現の話で、それはもう足りすぎてる話だし、自分の才能との格闘もなかった。「あるべき私に私はなるはず」っていうのは、単にぬるい話なんだよ。

Don’t trust over なんちゃら

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amazon石川雅之『もやしもん』1巻買った。「貧弱な坊や」と呼ばれる主人公が綴る郷土色豊かなヒューマンドラマみたいなタイトルだが、実際は現代東京の農大物語。正直、このタイトルはよろしくない気がする。主人公は菌が見える特殊能力を持つ。
 カメ水槽の濾過で硝化菌、掌蹠膿疱症がらみで腸内細菌のことちょっと調べたんで、菌には親近感がある。1巻の方が専門的で面白い。2巻はキャンパスライフに寄ってるんでノリきれない部分もある。こないだ西川魯介『野蛮の園』3巻読んだときも思ったが、学生生活って内輪ネタだし、大学とかだと変な人間いたって当たり前だし、若さゆえのあれこれをあんまり肯定されてもなー、みたいな。
 
amazon■気が付いたら湯川潮音を一番聴いてる。
 最初聴いたとき、実家の自分の部屋に連れ戻される感じがした。実家にいた頃、つまり若い頃にはなんか、もの寂しさがあった。年食ってからだって寂しいこともあるし不安もあるっていうか、若いときより具体的で深刻な不安があったりする。解決した問題もあるが、新たな問題もある。正味、中年の俺様が抱える行き詰まりは若者の自意識過剰に発するそれを遙かに凌駕する最強に強まったどこに出しても恥ずかしくない醸し具合のぐちゃぐちゃどろどろであると胸を張って言える。だけどなぜか、もの寂しさを感じることはなくなった。
 『逆上がりの国』最初の曲、『3:15』を聴いたとき、忘れてたもの寂しさが、わーっと蘇ってきた。かつて自分がいた場所に帰ってきた。まあ、そこに帰るのはいいことじゃないかもしれんけども。
 詞の意味はよくわからんのだが、声がそっちに引っ張り込む。バックはストレートな、いわゆる良質なポップなのがちょいと面白みにかけ不満ではある。アート・リンゼイのプロデュースは合うと思うんだけど、無理な望みだろうなあ。
 
スタ☆メン面白いな。
 
■トピックごとにエントリー分けるのやめたら書くのが楽になった。

響鬼がー

 あーもー響鬼がつらい。つらすぎる。エンディングがそうだったように、背中見て成長する話だったじゃないすか響鬼は。師弟とか上下関係、役割の違いはあっても、それぞれがそれぞれに働く人だったじゃないすか。それがなんだか薄っぺらなセリフで全部しゃべちゃって、悩む役、教える役みたいな。悩めばいいってもんじゃないし、中高生が考えたみたいな人関係を戦闘に持ち込んで安易に弱いライダー見せないでくれ。空間も時間も人関係の広がりもなくなって、セリフだけで転がるお芝居になっちゃった様は感心するほどだ。今までとは違うものとして楽しもうとしてみたが、やっぱダメだ。話がぞんざいすぎる。もうライダーはいいから『もっちー・あきらの下町探訪』とかにしてよ。