高橋秀実『トラウマの国』

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トラウマの国  『からくり民主主義』が面白かったので購入。『R25』の巻末でもコラム書いてますな。
 変なことになってるとこ(と言うと怒られそうだが)のルポ。トラウマのグループセラピー、地域通貨、セックスのハウトゥー本、共産党とか取り上げてる。『からくり』ほどのインパクトはなかったけど、これまたオモロい。
 『からくり』同様、「どういうことになってるかわからないから聞きに行く」というスタイルで、あらかじめ答を用意して特定の視点から書いたりはしてない(一応は)。だから読んで腑に落ちて問題が片づいた気にはならない。世の中にはこういう人もいるんだ、ってのがそのまま残る。
 でも、この人の「わからない」という、とぼけ具合も、結構意地が悪いと思う。逆に言うと、面白く書こうとすると意地悪になりがちなのに、この人はとぼけ具合で嫌味になるのを回避してて、上手い。なんてことを考えてしまう俺は底意地が悪いんだが、それだけに「意地悪を回避するとぼけ具合」って技に興味を持ってしまう。

本田透『電波男』

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%u96FB%u6CE2%u7537  買う前は基本的に冗談が書いてあると思ってて、そのわりには分厚いな、大丈夫かな、不毛じゃないかなと若干不安だったんだけど、面白かった。ギャグじゃないって言っちゃうとアレだけど、真面目に面白かった。
 欄外の脚注(の書き出し)を引用。

※デヴィッド・シルヴィアン
ミュージシャン。イケメン音楽家・引きこもり派。
※モリッシー
イギリスのミュージシャン。キモメン音楽家・引きこもり派。

 こんな解説見たことない。イケメン/キモメン、二次元=妄想=作品世界とした上で、二次元/三次元に分類すれば見えてくるものがあるんだなあと。
 
 俺も電車男は「エルメス」ってコードネームでもう興味持てなかったクチで。俺に関係ない話だわと。オタがオタを治して彼女できてハッピーエンドって、どこがいい話やねんと。ヤな話だなあと。「モテ」ってのは間違い探しかと。正常になればいいのかと。読んでないから知らずに言ってますけども。
 一方で「モテ」ってのはコミュニケーションの問題なんでしょうな。俺はモテない以前に友達少ないけども、それはコミュニケーションに問題あるからで。自分が寂しいだけならいいが、人に害があるんで治さなきゃいけない。言うてもこうなった積み重ねがあるからそうそう治らんのだが。
 妄想世界に行ったまんまってのも、それはそれでいい話と思えない。『下妻物語』の桃子は、周囲から浮いてて、この世界にいなくて、地に足が着いてない。それをイチゴが地面に降ろす。文字通り地面に降ろすシーンが2回出てきて、そのひとつが冒頭の生死の分かれ目。俺はこういうのを「ええ話や」と思ってしまうんで。永野のりこも柏木ハルコも、変な人間が変なまんま、なんとかなる話を書いてて好きだ。まあ、これらも二次元なわけですが。
 
 女は男を常に査定しててキモメンは差別されるってのがこの本の前提だけど、女から見れば逆じゃないかとも思った。一般に、女性の方が容姿を問われることが多いのでは。
 一般に女性の売り手市場だとは思うんだけど、逆の部分もあって、男と女、どういう状況でどっちが「売り」に回るのかとか、結構いろいろ根の深い話な気がする。
 あー、何言ってんのかわからんな。具体的に書くと変なことになっちゃうんだけど、例えばサービスを提供する側なのはどっちか、とか。ゲットするまでは一般に男がサービスする側で。商売としては逆に男がサービスを受ける側、買う側、払う側で。これはセットなんだろうな、とか。つまり「商売女に金使わないで私にサービスしなさいよ」は矛盾してるのかもしれず。
 これが男女逆になる場合、まったく反転した状態にならないとしたら、そのならない部分にねじれがあるのかもなとか。あー、やっぱり何言ってんのかわからんな。
 あと『赤灯えれじい』は大雑把には昔の少女マンガの逆パターンだなあとか。地味で取り柄のない男と、不良っぽくて美形の女のカップル。これがとてもしっくり来るのはどういうことだろうとか。
 今日本屋で『マザコン男は買いである』って本出てるの見たけど、これは男売ってるな、とか。
 この話にオチはないけども。
 
 読んでる間自分を振り返ったり、『すげこま』読み返したり、『タクシードライバー』観直したり、いろいろ考えさせられた。

内田樹 名越康文『14歳の子を持つ親たちへ』

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 親の方がヤバい、とか、子どものことなんてわかるわけない、とか、簡単に答を出そうとするな、とか。内田樹の本の中で一番わかりやすいのでは。
 コミュニケーションとはどういうものか話している、その対話自体が実践例になってたりする。

俺は本屋が好きなのに本屋は俺に優しくない件について

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 『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』買った。
 言うまでもなく重要な本じゃないですか。アマゾンでも上位に入ってる。なのに本屋数件回って売ってない。結局渋谷のブックファーストで買った。
 『電波男』も出てすぐ探したけど売ってなかった。これも渋谷のブックファーストで買った。
 まあ、どっちもネットに需要が偏ってる本ではあるけども、売ってないってのは温度差ありすぎないか? グラビア出まくってるのにテレビに出ない川村ゆきえくらいの不均衡じゃないか?
 んで『電波男』、今は売ってるの。
 『夕凪の街 桜の国』もさ。ウチの近所にはそれなりにマンガに力入れてる大きめの本屋が2件あって、小さいとはいえビレッジバンガードもあるんですよ。なのに、なかった。これも渋谷のブックファーストで買った。いや、ブックファーストの宣伝してるわけじゃないけど。一番近い大型店がそこなだけで。
 今は近所に売ってる。平積みで。賞取ったから。
 受賞をきっかけに売れるのはいいことだけど、本屋に対してはなんだかなーと思うわけで。
 今月の『BUBUKA』に吾妻ひでおのインタビューが載ってる。

吾妻 『失踪日記』はコアマガジンから出せなかったね。まずその話からしようか?(笑)
——そうですねぇ……(苦笑)
吾妻 上層部から承認されなかったってことは、俺の評判って最悪なんだな(笑)
——しかし、売れてますよね。大きい本屋じゃ平積みですから。

 『失踪日記』の半分くらいは『お宝ワイドショー』での連載。だから白夜系から出るのかなーと思ってたら、イースト・プレスだった。上が止めたんですな。面白いかどうか読んでも判断できず、データとして吾妻ひでおじゃ売れないと。
 まあねえ。いろいろしんどいとは思うけど。もうちょっとなあ。いいものは推してくれよ。

 『いきなりはじめる浄土真宗』なんか大型書店にもないんでアマゾンで注文しましたよ。これと一緒に。
 関係ないけどホーム&キッチン部門で鼻毛カッターがずっと1位なのはなぜ?

内田樹 釈徹宗『いきなりはじめる浄土真宗』

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いきなりはじめる浄土真宗いきなりはじめる浄土真宗 インターネット持仏堂 (1)
はじめたばかりの浄土真宗 インターネット持仏堂 (2)
 
 俺は生まれてから死ぬまでずっと俺とか、日本は昔からずっと続いてるとか、時間が繋がってると考え過ぎじゃないかと思ってて。
 自分が一貫して自分だというのは、思い込みが支えてる。なんてのは極論だけども、なら、時間が繋がってるってのも極論かもしれん。と言ってること自体が極論なんだけど。要するに、繋がってると考えすぎだと思うから、いっぺん逆に、繋がってないと考えすぎてみたらいいんじゃないかと。
 『大戦略』とかのシミュレーションみたいに、ターン制で考えたらどうか。ターン毎に前のターンは忘れることにする。とにかく今、目の前にこういう状況がある。状況に対して自分の反応がある。1ターン終わり。また忘れる。その繰り返し。
 「今までのことはともかく、これからどうするのがベストでしょう」って考えられれば都合がいいことは多い。過去の罪なんかは、現状ないものなんだから、考えなくて済む。
 実際、人は変わるし。時間でも変わるし、状況でも変わる。
 前にも書いたけど、シャーレの中に簡単な生物を入れて、片方に光を当てれば、そっちに集まったり、逆に集まったりする。生物の種類によって反応は決まってる。集まった逆側にエサを入れてみたり、別の生物を放り込んでみたり、状況を複雑にすると、反応も複雑化する。
 複雑な生物である俺が、ものすごく複雑な状況にいるのも、この延長線上にある。過程と理由はともかく状況はこんなんで、過程と理由はともかく俺はこんなんなっちゃってる。犬が吠えてれば避けて通ったり、ネコがいれば寄ってったり、状況に対する反応を繰り返してる。
 車に轢かれたとする。「なぜこんなことに?」に対して、俺か運転手かがよそ見してたからとか、取り敢えずの答は出るかもしれんが、そもそもその道を通るに至ったいきさつとか言い出すと、どこまでも過去に遡って考えることができる。因果関係が複雑すぎて、結局のところ「たまたま」としか言えない。
 たまたまの状況に対して反応して、次のたまたまが来る。

 とか、考えてたら。

そもそも仏教思想に拠れば、自由の主体である自己そのものも、実体があるのではなくさまざまな条件や刺激への反応という形で寄せ集められた一時的状態であるとされます。これを仮有(けう)と言います。実有(じつう)の反対です。物体としての存在は、すべて仮に集合している状態、という考え方なのです。ですから仏教から見れば、「自己実現」という概念などは、かなり怪しい、ということになります。確たる自己、統一している自己、首尾一貫している自己がどこにあるかというストーリーに振り回されちゃいけない、と説きます。

 ストーリーだって。
 
 仏教は知らんけど、こんなんだろうと思ってたイメージと、かなり違ってて面白かった。仮有とかいうのはまあ、仏教が言いそうなことだなあと思うんだけど、「そんなこと言っちゃって宗教として成り立つのか?」みたいなことも書いてある。内田樹が、罰をあてるような宗教はつまらない、学ぶべき宗教はそんなものじゃないですよね?的な誘導をしてるせいもあるかもしれん。この流れのおかげで面白くなってるんだけど、なーんか内田樹がかたくなな感じで、タイトルに反して浄土真宗についてはあまりよくわからない内容になってたりもする。食い足りん感じがするんで釈徹宗の『親鸞の思想構造—比較宗教の立場から』を読んでみようと思ったが、6090円だって。ジーザス!

ロバート・N・プロクター『健康帝国ナチス』

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健康帝国ナチス ナチスは健康オタだった、という本。健康に対する先駆的な研究や取り組みも多い。食品添加物を減らそうとしたり、アスベストやタバコの肺ガンへの影響を早くから指摘してたり。ヒトラー自身が基本的に菜食主義で、酒もタバコもやらなかった。
 国民の身体は国家のもの、健康は義務であり、病気は間違ってるから廃絶しなきゃいけない。からではあるけど、こんなふうに収まりのいい解釈をするのは、「単純な評価をするな」と繰り返す著者の意図に反する。
 わりと淡々と事実を追ってる本だけど刺激されることは多いし、今に繋がることもあって面白かった。
 ナチスは動物愛護もやってたみたい。

デートレフ・ポイカート『エーデルワイス海賊団』

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エーデルワイス海賊団 副題は「ナチスと闘った青少年労働者」。独裁体制下で言うこと聞かなかった若者たち、エーデルワイス海賊団の記録。資料の羅列だから退屈なとこもあった。
 
 エーデルワイス海賊団は、共産趣味ではあったようだが政治性は薄く、抵抗運動をしていたとは言い難い。単にヒトラー・ユーゲントがマヌケのくせにデカい顔してて気に入らんから殴ってたようだ。
 統一された組織でもなく、日本で言えばカミナリ族とかタケノコ族とかトミノコ族とか、その種の自然発生的なもので、基本的にはハイキンググループだった。
 ハイキング用のハデなチェックシャツ、白のハイソックス、皮の半ズボン、赤いスカーフ、鋲の付いたベルト、エーデルワイスのバッジを身に付けていた。「ハイキング伊達男」とも呼ばれる。
 日本語にすると、どうにも妙。伊達男って。大体、海賊って。英語だとパイレーツだからなんとなくニュアンスはわかるが、日本語には「海」が入ってて違和感がある。
 しかもハイキング。不良がハイキング。親の目を離れて行動できるメリットはわかるが。
 ヒトラー・ユーゲントは男子のみ、女子はBDM(ブント・ドイチャー・メーデル)と分離されてたのに対し、エーデルワイス海賊団では異性と楽しくやれて、ヤれたりするのも魅力だったようだ。ヒトラー・ユーゲントは余暇の活動まで規定してたらしいから、そりゃまあ、やっとれんだろう。
 ナチスをからかう替え歌を歌い、公園に「打倒ヒトラー」と落書きして回る団体が終戦まで存続してるのが不思議だが、ちゃんとした組織じゃないから解散させることもできなかったらしい。それに、若者は反抗したいものだし、一時的な行動だから、適切に指導してやればまっとうになるよと考えてたようだ。理解があるとも言える。若者は野外でのびのび遊びたいものなのに、ヒトラー・ユーゲントは彼らの要求に応えられていないという体制側の自己批判まであった。やっぱり若者はハイキングなのか。あたしゃ高校のときワンダーフォーゲル部だったけどね。若者として正しかったんですかね。「歩く文化系」と呼ばれて運動部扱いしてもらえなかったけどね。
 
 海賊団のスタイルは、それ以前に存在した「ブント青少年」を踏襲してるようだ(日本にもブントという組織があるが、「ブント」は「同盟」の意味らしいからたぶん関係ないんだろう)。この本を読む限りではブント青少年の方が組織化されていたらしいことくらいしか海賊団との違いがわからない。ブント活動が禁止されたあと、不良がブントのスタイルを真似たらしい。
 ユースホステル運動研究室・リヒアルト・シルマン先生の生涯によると、ワンダーフォーゲル運動やユースホステル運動には、急速に高度化する資本主義の中で、自然回帰・人間性の回復を図る意味があったらしい。ブントもこの流れなんだろう。ナチスにも自然回帰の指向性はあったようだし、こういう時代だったのか。
 松岡正剛の千夜千冊『ドイツ青年運動』を見ると事情はもっと複雑だったみたい。ここではワンゲル→ブント→ナチスと繋がってる。しかし、ナチスはブント活動を禁止した。ブントがヒトラー・ユーゲントに吸収されたあと、「本来の」ブントへの回帰を指向したのが海賊団なのか。
 
 別の不良集団「スウィング青少年」も面白い。

 正式のメンバーと認めてもらうには誰でもスウィング青少年の慣習や服装、目印を受け入れねばならず、男子の場合にはしばしば上着の襟まで達する長髪(髪の長さは二十七センチ)によって正式メンバーと認められた。メンバーは主として丈の長い、チェックの模様の入ったイギリス風の上着を着用していた。靴は厚めの、明るい色のクレープ加工底のもの、派手なマフラー、ハンガリー外交官が被っているような帽子、腕には天候とは無関係に常に雨傘、ワイシャツのボタン穴には目印のカラフルなカウスボタン、といった格好だった。
 女子も波打つような長い髪型を好んだ。眉を引き、口紅を塗り、爪にはマニュキアをしていた。
 メンバーの態度も服装と同じく酷いものだった。
 彼らの言葉使いもスウィング青少年の本質を特徴付けていた。彼らはお互いを「スウィング・ボーイ」、「スウィング・ガール」と呼び合っていた。手紙の結びの挨拶は「スウィング万歳」であり、スローガンは「のらくら暮らす」だった。そのために「のらくらクラブ」とも呼ばれていた。「のらくらボーイ」や「のらくらガール」の日記には、「午後は<のらくらして過ごした>」、という文章がよく見られた。彼らの理想はのらくら生きることである。ある日記には「かくしてわれわれはステキなバー・スウィングで早朝までのらくらしていた」とあった。もっと頻繁に見られた表現は「ホットジャズを踊った」、「ホットジャズ」、「ホットジャズ・パーティー」などだった。
 スウィング徒党のイギリスかぶれぶりをさらに特徴付けているのは彼らのイギリス・アメリカ音楽、特に現代ジャズへの熱狂ぶりであり、彼らのホット・ミュージックとの関係は一種の精神病と見なされる。この黒人音楽への偏愛がこの種の多くの若者たちを繋ぎ止めている主要な絆だった。この音楽、そしてこの音楽と結びついたダンスが娯楽の主たる対象だった。ダンス禁止令が出されていた間は酒場で踊ることはできなかったので、音楽に合わせて歌をうたい、腕を動かしてリズムを取っていた。そうした青少年グループの光景は「気のふれた狂人の舞踏病の一団」に似ていた。

 まさにサブカルチャー。「酷いもの」とか「気のふれた」とか否定的なのは体制側の文書だから。「スウィング万歳」は「ハイル・ヒトラー」のもじり。この時代、こんなんよその国でもあったのかね。俺ものらくらしていきたい。仕事しないぞ! 黒人音楽で踊るぞ! 反体制だ! サボタージュだ!

橋本治と響鬼

書籍 | 写真 | テレビ・ラジオ

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amazon橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』
 「日本人は」と言うとき、高みから俯瞰してものを言うか、「われわれ日本人は」みたいに内側から勝手に代表者になるかだけど、橋本治の場合は、日本人がよその人みたいなニュアンスがある。上からでも中からでもなく、よそから見てる。
 この人の本読んでると、よそに連れて行かれるから怖くなる。
 
■関係あるようなないような話だけども、響鬼。
 ウチの父親は会社員で、俺は子どもの頃、会社員というのが何をやってるかわからんかった。背広を着て出かけて、酔っぱらって帰ってくる。その間に何をやってるのかわからない。マスオさんのようなものだろうと思うんだけど、マスオさんが何をやってるのかわからない。自分が学校に行くように会社に行って、時間を売って給料をもらってくるんだろうと思ってた。それはまあそれで間違いじゃない。
 世の中のお父さんのほとんどはサラリーマンだから、「サラリーマン」という言葉を使うのも主にサラリーマンだった。そんで「サラリーマン」には自虐的なニュアンスがあった。歯車であるとか。会社では上司に、家では妻に、やいやい言われる。日曜日は寝てよう日で、ごろごろして邪魔にされる。家は母親が仕切っていて、家族から見れば給料を運ぶだけの存在。そういうものであると、当のお父さん自身が位置付けてた。
 当然というかなんというか、息子である俺的には、父親が、父親の仕事が、まるで魅力的に見えない。っていうか、つまらないものだと思えた。
 父親みたいになりたくないなあと思いながら育つ。思うだけで言いはしないが(もしかしたら、なんかのひょうしに言ったかもしれんが)、父親はそれを察知して、「お前はつまらないと思ってるかもしれないが、俺にだって楽しいことはあるんだ。ゴルフとか」って言い出すから、なおさらつまらないなあと思う。
 そんなこんなで父親みたいなサラリーマンを避けて、ジャンル分けとしては「マスコミ系」であり「クリエイター系」の職に就いたんだけど、こないだまで会社員でもあった。一部、エッジな人々を除けば、クリエイターも単に専門職であって、ほかとそんなに違わない。自分が知ってる狭い範囲で言えば、どの仕事でも大事なのは気を利かせることだろう。自分に何が求められてるか察知して、その通りやる能力。求める相手は上司、クライアント、エンドユーザーといろいろあるからややこしかったりはする。それと、何が求めてられてるかわかった上で、その通りやらないという選択肢もある。けどとにかく、誰が何を求めてるかわかんないと、ズラしていい幅もわからない。
 なんにしてもニーズを気にしないでやりたいことをやってお金がもらえるというのはラッキーというか特殊というか難しい状況で、普通は人様の要望に応えるからこそお金がもらえる。誰かの意に沿うから、誰かがお金を払ってくれる。そんな当たり前のことが子どもの頃はわかんなかった。
 あらかじめお金が唸ってるんでなきゃ、残念ながら、どうにかして稼がなきゃいけない。人それぞれ稼ぐ手段が必要で、それぞれ手段は違うが、おおむね変わらないっちゃー変わらない。人のためになんかやって、人からお金をもらう。父親の仕事にどのくらいの面白みがあって、どのくらいつらかったのか知らないが、取りあえず俺の仕事と全然違うものじゃないだろうと思う。父親は父親なりに生活の維持を考えたんだろうし、俺は俺なりに持続できる仕事を模索してる。
 それで思うのは、俺らの親の世代のサラリーマンが自虐的だったことは、結果的にあんまりよくなかったなーってこと。ホントに「結果的」で、今だから言えることだし、今言ってもしょうがないんだけど。つらさも誇りも素直に伝えてればよかったのに。
 『13歳のハローワーク』は読んでないけど、「キミたちの可能性はいろいろあるよ」みたいのはもう足りすぎてるんで、周回遅れに見える。
 
 そんで響鬼だけども、響鬼は働くおじさんだった。人のために仕事をしてた。仕事ってのはクビにならない範囲で手を抜けるものだけど、「鍛えてますから」は、真摯に仕事に取り組んでるってことだった。響鬼は働くおじさんの背中を見せてた。これこそが足りないものだった。親が見せてくれなかったものだった。
 響鬼はヒーローで、特殊な才能であって、若者が憧れるに足る存在だけど、みんなが鬼になる必要はなかった。立花でお茶を運ぶのだって、ひとつの立派な役割だった。ヒーローチームが資金集めのために地道に飲食店やってるのは、面白さを狙っただけの設定じゃないだろう。少年がブラバンでドラムを担当できなくても、ホイッスルという役割を果たせばよかった。明日を夢見る少年としては当然面白くないが、実際やってみれば思い通りにならなかったりするもので、同様に鬼の素質があるかも謎だ。それでも少年なりに鍛えて、自分の場で、自分にできる、自分のやるべきことをやればいい。
 だから劇中であきらが鬼になる必要もなかったし、少年が弟子にならなくてもよかった。
 一方で30話以降のあきらのセリフ「私は鬼になれるんでしょうか?」は自己実現の話で、それはもう足りすぎてる話だし、自分の才能との格闘もなかった。「あるべき私に私はなるはず」っていうのは、単にぬるい話なんだよ。

「かわいい」論

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四方田犬彦『「かわいい」論』読んだ。
 今さら「かわいい」かー、とも思ったけど結構オモロかった。書き方が凄く普通なのが新鮮だった。語源を遡る、過去の作品にあたる、アンケートを採る。
 「かわいい」はかわいくないものに対するバリアで、同じ感覚を共有できる人間を結び、できない人間に対するバリアだから、内側から語ろうとすると感覚の微妙さを細かく掘ることになる。萌えもそうだけど、いかに特殊でわかりにくいものであるかを説明するっていう少々変なことになる。一般化ができない。一般化からこぼれた微妙な部分こそ大事だから。
 この本は内側から書いてない。共感をベースにもしてない。だからぐちぐちしてない。

またわたしは「オタク」と呼ばれている年少者が饒舌に口にする、部外者の介入を許さない衒学的討議には何の関心も抱いていなかったし

あとがきにこう書いてある。「年少者」って切り方が冷たい。萌えに触れてる部分はオタであれば突っ込みたくなる感じだけど、そういう細かいことはいいじゃん、と。実際読んでて「あー、これがまっとうな書き方だよなー」と思った。

ジョン・W. ダワー『人種偏見』

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anazon■副題が「太平洋戦争に見る日米摩擦の底流」。人種の面から見た太平洋戦争。初版は'87年。出たときに話題になってたのかもしれない。
 第一部は全体の俯瞰。日米お互いにクソミソ言い合っていたわけだけど、悪口には根拠があってデタラメじゃなかった。お互い実際ひどかった。つまりはお互い様だった。相手をひとまとめのステレオタイプにはめるっつーのは反日・嫌韓の人らが今もやってることで。進歩がない。
 第二部はアメリカが日本をどう思ってたか。自分がどう思われてるかは誰しも気になるところで、日本人的にはここが一番面白い。うんざりするほど日本人がクソミソに言われる。「黄色い猿」に差別が含まれてると知ってはいるんだが、実感としてどんなふうかはわかってなかった。太った人をブタ呼ばわりするのとどう違うのかピンと来ない。そのへんが、うんざりするほど読めばなんとなくわかってくる。概要まとめたり、どっか抜き出して引用したところで「そんなのは知ってるよ」ってことになっちゃうんで、やっぱりうんざりするほど読まないと。
 妙だったのは、日本人は平衡感覚に欠陥があるから航空機の操縦に向いてないと思われいて、その原因は乳児のとき、背負われてシェイクされるからじゃないかと言われてたこと。
 もうひとつ。日本人が精神的に未発達なのは、子供の頃の厳しすぎる排便のしつけにあると説明されてたらしい。厳しすぎるってどういうことだろう。欧米はどうしてたんだ? それか当時の日本は、今はなくなった異常に厳しいしつけをやってたのか?
 第三部は日本からみたアメリカ。なのだが、単純に裏返しにならない。欧米は現に勝ってたから、白人から見て白が優秀なのは自明のことだった。一方、日本は遅れてきて欧米から学んでる立場だから、黄色人種の方が優れているとは言えない。で、精神的に優れていると主張し、アジアの白人になろうとした、って話。
 第四部は戦後の話。これがないと話はまとまらない。まとめに向けて、こじつけた感じがしないでもない。それでも興味深くはある。
 気持ちの問題は客観的に扱いにくいもので、歴史関係の本としては比較的怪しい部類になるのかもしれないけど、実利の面であーなってこーなってって話より、よっぽど今に繋がる流れがわかる感じで面白かった。

おたくのなれの果て

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蛭児神 建(元)『出家日記—ある「おたく」の生涯』読んだ。
 変質者のコスプレがトレードマークであるロリコン同人誌の大物が、現在は僧侶だという。なんだそりゃ。どういうわけだ。とにかく現在は落ち着くとこに落ち着いて心おだやかなんだろう。と、思ったら。
 うー。重い。これはキツい。
 俺は『レモンピープル』中綴じの頃から買ってた読者で、当時、蛭児神建たちは華やかに見えたんだけど。
 オタクって逃げ場だったりするじゃないすか。見た目アレでも社交性に問題あっても趣味が同じなら繋がれるし。そんで、オタじゃなくなったとき、逃げ場の必要がなくなってたり他の逃げ場が見つかってればいいけども、うまく行ってないのに逃げ場もなかったらどうすんだ。俺40歳だけどもこんなんで、オタから見ればもはやオタじゃないし。ずーっとオタやってりゃいいじゃんっつっても、そうじゃなくなっちゃったもんはしょうがないし。
 まーだからそうそう人ごととは言えなくてキツい。当時のことをまるっきり知らん人には面白くない本だろうけど、今の若いオタの中にもいずれ人ごとじゃなくなる人はいるはず。

9条どうでしょう

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amazon■著者は内田樹、町山智浩、小田嶋隆、平川克美の4人。左右の枠から外れたというか、改憲にこれまでと違う視点を持ち込む本。
 町山さんのが凄く具体的でわかりやすく、面白かった。そもそも憲法ってどういうもんよ?ってとこから知らない俺みたいなのにはありがたい。
 っていうか他の人のはあんまり面白くなかった。町山さんとこだけ凄くオススメ。人によって感想違うだろうけど。
 俺は、よくわからないながら今のところ改憲した方がいいんじゃないかと思ってて、ただ、今この流れでやってほしくないなーとも思ってて、その辺だいたい平川克美と同じ思い。
 あと、改憲するなら天皇制のメリット・デメリットは検証し直すべきなんじゃないのかな。オカルトでしょ。気持ちの問題でしょ。合理的じゃないでしょ。9条を合理的に変えるなら、こっちも合理的にした方がいいんじゃないの。不平等だし。オカルトにはオカルトの機能があって、それは無視できないし、せっかく続いてきたものを表面上非合理だからってやめるのもどうかと思うが、「伝統」のひとことであっさりオカルトをOKにしちゃうのはわけわからん。日本人は一般に無宗教と言われてるのに。リアリストを自称したりもするのに。

CD付きの新書

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久保田麻琴『世界の音を訪ねる—音の錬金術師の旅日記』
 なんと新書にCDが付いてた。何インチだっけ? 小っこいヤツ。3曲入り。モロッコのミュージシャンと録音したものだとか。よくわかんないけど面白い。俺はどんな音楽にも詳しくないから、どんな音楽もよくわかんないす。
 本はまだ読んでないんすけどね。MOTHERで忙しくて。ちょっと見たところ、ミュージシャンらしい文体で、読みにくげだけど面白げ。
 
 岩波新書の新刊、面白そうなのが複数あって困る。10冊出たうち、全然興味ないのは3冊だけ。MOTHERで忙しいんだけどな。っていうか、本読むのは外食のときと、ときどき風呂と、たまに電車乗るときだけだから、なかなか進まないんだよな。今も2冊溜めてるし。柄谷行人『世界共和国へ—資本=ネーション=国家を超えて』は読みたいな。末木文美士『日本宗教史』も買うかも。

買い物

マンガ | 書籍 | 音楽

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■児ポ。'58年初版。折り返しの内容紹介は下世話だが、中身はまともっぽい。著者はカメラマンで、'53年から3年半ブラジルに住んでいる間、4回アマゾンに入ったそうだ。面白そう。
 
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■『黄金のバラ』、クレメンチーナ買った店に売ってた。どっちも800円だったのよ。それでこの内容だから嬉しくて汁が出ちゃう。
 伝説的な同名のショーをレコード化したもので、クレメンチーナのデビュー作にあたるそうな。メンツは、アラシイ・コルテス、クレメンチーナ・ヂ・ジェズース、エルトン・メデイロス、パウリーニョ・ダ・ヴィオラ、ジャイル・ド・カヴァキーニョ、ネルソン・サルジェント、ネスカルジーニョ・ド・サルゲイロ。
 
これが私の御主人様1 (1)■原作:まっつー 作画:椿あす『これが私の御主人様』1巻、ブックオフでちょっと立ち読みしたら意外と(失礼?)面白かったんで購入。可愛い女の子が出てくるだけのマンガだろうと思ってたら、ホントにその通りで内容のなさに驚いた。メイドでオタでドタバタで、楽しませる要素しか入ってない。半端なラブコメより全然いい。こんなマンガなのにパンチラすらなかなか出てこない抑え具合もいい。
 
■私信
 これ→大人には聞こえない着信音。やっぱり聞こえん。

古本

書籍 | 音楽

細野晴臣インタビューTHE ENDLESS TALKING■文庫で1470円という値段にびびった『細野晴臣インタビューTHE ENDLESS TALKING』を古本屋にて半額で購入。風呂の中で半分読んだ。『チャタヌガ・チュー・チュー』はカルメン・ミランダのコピーって、そのまま書いてあるな。
 
■『「中学英語」を復習してモノにする本』も『えいご漬け』攻略本として約半額で購入。この手の本は字がデカい。つまり内容薄い。コストパフォーマンス悪い。新品で買う気せず。

ほちょの

書籍 | 音楽

『細野晴臣インタビューTHE ENDLESS TALKING』読み終わった。最後の方、オカルトが濃くなるとついてけなかったが面白かった。
 多摩美のポッドキャストでも中沢新一と同じような話してる。

磯部潮『発達障害かもしれない』

書籍

発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子磯部潮『発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子』読んだ。高機能自閉症、アスペルガー症候群に関する理解を促す本。メインターゲットは子どもに関わる親や教師なんだろう。
 高機能自閉症というのは、普通に暮らせるけど自閉症っぽい傾向がある人だと思ってた。この本によれば、自閉症なのに高機能なせいでそう見られず、誤解を受けやすい人らしい。言い方・視点の違いっぽくもあるが、根本的に全然違うんだろう。高機能自閉症は、高機能だが、あくまで自閉症、とうことらしい。
 自閉症の概念が広まったのが'60年代後半というのは意外だった。俺は'65年生まれなんだけど、自閉症の同級生がいた。幼稚園から中学まで一緒で、自閉症はある意味身近だったから、もっと昔からある概念だと思ってた。彼の両親はしばらくの間、自分の子どもが何でああなのかわかんなかったのかもしれない。
 電車に乗るとよくそいつに会った。ずっと乗ってるらしい。挨拶すると「おう!」とか返事が返ってくるけど、それだけで話はできない。自閉症は手順にこだわるらしいから、決まった時間に決まったルートを走る鉄道は魅力的なのかもしれん。と、理屈では思うけど、なんでそこまで惹かれるか謎。鉄っちゃんって変な人多いよなあ。
 著者の意図するところとズレてんだろうけど、自分に似たとこ、自分と違うとことか、いろいろ興味深かった。なんかうまく行ってないと思う人には、かなり面白い本だと思う。
 自閉症だと感情移入ができないらしい。抽象化もできないらしい。視聴覚で選択的にものを捉えることもできない。カクテルパーティー効果やパターン認識がうまく働かないらしい。

 頭の中は映像の洪水
 しかし高機能自閉症やアスペルガー症候群の人たちは、自閉症患者と同様、視覚領域においては一般人より優位性が発揮されることがしばしばあります。
 前述したように、私たちは物事や出来事の不必要な部分を意識することなく切り取り、必要なものだけを記憶する選択的注意という能力を持っています。しかし彼らは、無意識レベルで切り取ることなく、物事を記憶します。普通私たちは注目しているものに焦点を合わせて、それ以外のものは意識することはないのですが、彼らは写真のように全体の映像を切り取るのです。(p.73)

 

 こういう症状はどのように説明すればよいのでしょうか。
 私は、これはデジタルカメラのファインダーで世界を切り取ったようなものではないかと考えています。
 見るもの、感じるものを一瞬一瞬、場面場面で切り取るため、自分の内的世界に残像はあるものの、全体的に捉えたり、抽象化したり、他社と体験を共有することができなくなるのではないでしょうか。
 これは先ほどの「五感の過敏性」にもつながっています。つまり、ファインダーで切り取ったファイルをハードディスクに次々と入力し続けているため、容量がすぐにいっぱいになってしまうわけです。
 ただし、抽象化や全体化という修飾を受けていない分、ファイル自体の鮮明度は、おそらく極めて高いのではないでしょうか。自閉症の子どもが驚異的な記憶力を発揮するのは、このためではないかと思います。
 この能力も、生活する上で計り知れない不都合があると思います。他者と体験を共有できなければ人付き合いができないでしょうし、抽象化や全体化ができなければ他者とコミュニケートすることもままならないでしょう。しかし、この能力は、私たちに新たな発見をもたらす可能性もあるはずです。先入観を排して物事を見るということは、私たちにはありえないことですが、彼らにはそれが可能なのです。
 世には知られていないだけで、世紀の大発見をした人物の中に、おそらく多くの高機能自閉症やアスペルガー症候群の人がいたと私は考えています。その証拠に、偉人伝には変人やまるで協調性のない人、おそろしく自分勝手な人が数多く登場します。具体的には先のアインシュタイン博士や、発明王として知られるトーマス・エジソンもアスペルガー症候群だったろうと考えられています。日本では、坂本竜馬や織田信長がそうだったのではないかと言われています。
 
 私たちの視点は普遍的なものか
 先に述べたように、自閉症児の視点は私たちとは異なります。では、私たちの視点は普遍的といえるのでしょうか。あるいは、物事の本質を見抜いているといえるのでしょうか。ひょっとしたら、私たちの視点は、単に生活をしやすくするため、言い換えれば、生存しやすくするために手に入れた特性かもしれません。
 本来、自閉症の人が持つ「五感の過敏性」と「状況への認知の歪み」こそ、本来人類が本能として持っていたものであり、私たち人類は生存を容易くするために、進化の過程で「選択的注意」を獲得したのではないでしょうか。
 たしかに私たちは選択的注意のおかげで格段に生活しやすくなり、生存し子孫を残すことに成功したのかもしれません。けれども、ある程度安全が保証された現代において、選択的注意は必ずしも完璧である必要はないのではないでしょうか。だからこそ、選択的注意が不完全な自閉症が生まれたのかもしれないのです。
 私たち一般人の視点は、あくまで進化の過程で備わったものであり、普遍的なものではありません。自閉症児の物事のとらえ方や視点の中にこそ、人類が選択的注意を獲得する以前の、人間としての本能や普遍的な視点が隠されているのではないかと思うのです。
 なぜ私がこんなことを考えるのかというと、自閉症児の視点は、常に一定の自らの快感原則に従っているように見えるからです。しかもその視点は、自分を中心にして三六〇度、物事を均等に平等に先入観なく取り入れているように思えます。(p.31)

 認知に関する知識がないんだけど、これは変じゃないかなあ。センサーの入力をそのまま受け入れる高等生物なんていないんじゃないか。人間のそれとは違うかもしれないけど、どんな生き物でも不必要な情報は捨ててるはず。選択的注意をしないのが「本来」なんてことはないだろう。それはやっぱりエラーだと思う。
 でも、次の段階、言わばニュータイプとしての選択的注意の放棄ってのは、お話としては面白い。

ニオイガメ、ドロガメの医・食・住

書籍 | カメ

ニオイガメ、ドロガメの医・食・住菅野宏文『ニオイガメ、ドロガメの医・食・住』。ニオイ・ドロだけで1冊は快挙。3年ほど前にニオイガメ飼い始めたときは情報が少なくて困った。困るのは俺だけじゃなかろうと思ってサイト作ったりした。
 この本、内容が整理されてない感じで、押さえるべきポイントがわかりにくいのが惜しい。図を入れれば済むところを長々と文章で説明したり、同じ話が複数回出てきたりも。けどやっぱり出てくれてありがたい。
 ニオイガメはあまり動かないカメって書いてあるが、他のカメはもっと動くのかなあ。ウチのカメは十分以上によく動くけどウチのだけおかしいのか?

「80年代地下文化論」講義

書籍

東京大学「80年代地下文化論」講義宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』読んだ。
 80年代は「スカ」だったのか。80年代を語る切り口はバブルとオタクが一般的だけど、ほかにあるんじゃないか。ということでこの本は、原宿にあったクラブ『ピテカントロプス・エレクトス(ピテカン)』をキーに80年代を語ってる。著者は劇作家でラジカル・ガジベリビンバ・システムやってた人。「地下」ってのはアングラじゃなくてピテカンが地下にあったから。
 本書でピテカンが象徴するものをまとめると、批評性、ニューウェイブ、かっこよさ(美学)、不合理性(=儲からないもの=文化)、みたいなことになると思う。ピテカンはかっこよくて、ニューウェイブで、批評性があって、儲からなかったと。まとめすぎだけど、そんな感じかと。ピテカンは当時の文化人にとってすら敷居の高い、センスエリートの集まる場所だった。

 「ピテカントロプス・エレクトス」という文脈がひとつ、こちら側にある。それから、「ピテカントロプス・エレクトス」とまったく対峙するところに、「おたく」があります。(p.399)

 「おたく」はピテカンの逆。「おたく」は閉塞して批評性がなく、保守的で、かっこ悪くて敷居なんかないと。
 
 セゾングループの文化活動について語ったあと、楽天とライブドアは企業メセナに興味を示さないという話が続く。

 この人たちが、企業メセナに対してなんの興味を持たないというのはどういうことか。つまり「文化」に興味がない。自分たちにとって一番の価値、手にとってわかる価値としての、たとえば「貨幣」であるとか、それから別の企業を買収することによって得られる価値に対してはきわめて関心が高いらしいんだけども、「文化」という不合理なものに対する理解や関心というのがまったくないとしたら、その無関心はいったいどこからやってくるのかということです。
 よく「お里が知れる」と言いますけど、そういった意味で「彼らの『お里』はどこか」をまず考えていくべきではないか。メセナに興味がないことでお里が知れるとするなら、最初から結論を話しますが、やっぱり「80年代的なおたく」というところに辿り着くんだろうと推測できるんです。彼らの出自はそこにあったんだと。
 そして、彼らが最も憎悪したものがおそらく「西武セゾン文化」であり、それに繋がってピテカンもあるし「ニューウェーブ」といわれるものもあるし、それから六本木WAVE、こうしたものをきわめて強く憎悪していたという心性はあきらかにある。(p.95)

 途中までは「ふむふむ」と読めるんだけど「おたく」が出てきたところからわからなくなる。「IT企業=パソコンオタクの集団」というイメージなら話は繋がるが、そういうことでもないだろう。ピテカンの裏側にあるものとして「おたく」が使われてる。独自に拡大解釈された「おたく」。で、「おたく」は中森明夫が最初に書いたように、排除される、笑われる対象だったから、ピテカン的なものを憎悪してると言う。最下位だった連中が逆襲してるのだと。

 80年代、「おたく」に代表される、「文化的な差異のヒエラルキー」の下に括られた人たちが、80年代が終わった途端、「スカ」だと言葉にしたのなら、それはまさにルサンチマンにしか見えない。ピテカンのだめな部分もあった。だけど、それをも乗り越えて、やはり、あの空間と、桑原茂一が持っていた理念のほうに、現在の可能性を見いだしたい、と思うんですよ。(p.404)

 うーん。「80年代はスカ」と言い出したのは「おたく」かなあ。もっと上の世代の人たちだと思うけど。実際にそういうキャッチフレーズの本をおたく寄りのライターが書いたにしても、80年代後半にはもう言われ始めてた。俺は実際言われたし。「80年代には何もない」って年上の人から。70年代までに青春送った人から見れば、80年代は大したことが起きてないから「スカ」と。
 ほかにも「おたく」の閉塞性・保守性の先にナショナリズムがあるとか出てくる。なんか今までなかった観点から強烈なオタク叩きをしてるなあと思った。
 まあでも聴くべきことも多いし、本全体は面白かった。
 
 さて、昔話。年寄りの繰り言。
 この種の対立って、全然ピンと来ないんだよな。オタVS新人類も。
 オタと新人類にはシームレスな部分があったように思う。新人類の代表格であり「おたく」の命名者である中森明夫が(途中から)発行人を務めたミニコミ、『東京おとなクラブ』にだって結構オタっぽい要素が入ってた。と、書けるのも、当時オタだった俺が現に『おとなクラブ』を買ってたからで。
 前にも書いたけど、対立するほど両者が異質だとすれば、オタはアニメにしか興味ないって定義なんだから、新人類なんて視野に入ってないはずだ。中森明夫みたいに向こうから絡んで来ない限り対立も何も起きるはずがない。中森明夫の件だってそれだけで終わったはず。
 まとめると、ニューウェイバーでもあったオタクは、(少なくとも主観的には)同族だと思っていたから対立する必要がない。同族嫌悪の可能性も考えにくい。オタ以外の要素がなかった人は、攻撃されない限り誰とも対立する必要がない。ネアカ・ネクラの分類で言うと、オタはネクラの側だから、ネアカに恨みを持つ可能性はある。でも、'90年代に入ってもネクラがネアカより有利な立場になったりしない。仮にルサンチマンを持っていたとしても、反撃に出てルサンチマンを顕在化させるチャンスなどなかった。いずれにせよオタクの側からの新人類への対立なんて、問題になるわけがない。
 結局のところ対立があったとすれば、って言うか、対立があることにしたいのは、新人類の側がオタに敵対心を持ってるからじゃないか。なんで文化的ヒエラルキーの下にいる人間を今に至るまでいちいち気にして絡んで来るのかわからん。それこそどういう種類の「憎悪」があるんだか謎だ。
 俺は中高6年間どっぷりオタで、マンガ・アニメ・SF周辺にしか興味なかった。中学に上がるときに劇場版ヤマトがあって、テレビでザンボット、ダイターン、ガンダムと続いたもんで、これはなんか大変なことになってるなと思って、それ以外がなくなった。ほかの趣味と言えば釣りくらい。
 だもんで音楽聴き始めたのは高校出てから。このあたりで中森明夫『「おたく」の研究』を読んでショックを受けたってのもある。いつまでもオタじゃいかんなと。
 で、「さあ音楽聴くか」となったとき、一番身近にあったのがYMOだった。アニメ関係の友達が聴いてたのがYMOだったから。あと中学の時から『ビックリハウス』買ってたってのも大きい。YMO周辺の人に好感を持ってた。
 時期的には散開直前の頃。YMOは滑り込みっていうか、ほとんど俺はリアルタイムで聴いてなくて、友達が聴いてる音楽だった。散開するってんで、FMでそれまでのアルバムを丸ごと全部かける特集があった。カセットに録音して、そればっか聴いてた。
 その後YMOから辿ってニューウェイブ聴きだした。音楽の話をする相手は、アニメの話をする相手と同じだった。そんなんだからオタとニューウェイブが対立概念ってのはピンと来ない。ライディーンもテクノポリスも普通に大ヒットした。『BGM』以降も離れてさえいなければ、YMOというチャンネルひとつ持ってるだけで、いろんなものにアクセスできたのだ。
 マンガもそう。大友克洋をはじめ、マンガの方のニューウェイブはSF関係の雑誌に載ってたからオタの領分だった。ガロも買ってたし普通にいろいろ読んでた。『漫画ブリッコ』での岡崎京子、桜沢エリカも楽しんでた。岡崎京子がブリッコで人気なかったつったって、途中までコラムというか落書きみたいなものでマンガじゃなかったしな。エロ本でエロ以外が人気取れないのは当たり前でもある。「ブリッコ読者は岡崎京子を評価しなかった」というかたちで、ことさらに取り上げる方がいやらしい。
 『「おたく」の研究』読んで脱オタを計ったところで、モテを目指すという選択肢が俺にはなかったから、ピテカン的なものに反発のようなものがないではない。今も「オシャレ」は敵と思ってるし。けども、この本が言うような、そんな根の深いルサンチマンって……。仮に俺の学生時代の環境がいくらか特殊で、オタはとことん閉鎖的でオタ以外を憎んでるのが普通だとしても、ルサンチマンを向ける相手はDQNに連なる人種じゃないのかな。新人類とかピテカンとか視野にないでしょう。
 とかまあね、自分が見てきたものを基準にしてしか話せないわけで、それはこの本も同じだし、ごく最近の過去について細かく掘り下げること自体がわりと不毛だなと思った。若い人は80年代のことなんて全然気にしないでいいと思う。

世界の孫

マンガ | 書籍

世界の孫 1 (1)SABE『世界の孫』1巻
 妹キャラを超える孫キャラ。今のところ通しのストーリーはないっぽい。キャラで押すぶん、これまでの作品よりキャッチーかも。
 絵が上手いのが変な感じ。普通、上手い絵、上手い表現は、表現する内容のための手段だが、内容つっても変なキャラが変なことやってるだけのマンガだし。ジャケの絵も凄い良くて、良い分だけ変な感じ。いやもちろん、変で面白いです。
 
鈴木先生 1 (1)武富健治『鈴木先生』1巻
 評判いいみたいなんで買ってみた。面白かった。教師が合コンで知り合った人と付き合ってるって時点で、ちょっと違うなって感じがする。等身大っていうか。扱ってる問題が細かい。問題の扱い方も細かい。「デリケートなことだからさ」。小川蘇美は今後も悩ましい存在であってほしいな。
 表情とか構図とか変に大げさなとこは、ちょっと昔のマンガっぽい。
 
橋本治『失楽園の向こう側』
 '00〜'03年にビッグコミックスペリオールに連載されたエッセイ。見かけて、内容も確認せずに買ったが、これまた面白かった。特に前半。